江戸時代には村落共同体の一環として若衆組の青年組織があったが、明治期に入り、新しい社会状勢のなかでしだいに埋没していった。日露戦争後、青年活動は国力進展の源泉として重視されるようになり、政府と県はたびたび訓令・通牒を出して、青年団体の育成指導を指示、督励した。
本市域における青年団体は、すでに一八九三年(明治二十六)に花岡において、青年の風儀改善と菅原社祭典の奉仕を主目的として華陵青年団が結成されていた。しかし近代的な青年組織をもって活動するようになったのは明治後期からで、一九〇九年(明治四十二)二月末武南村青年会、同年三月「米川村青年会」、一一年十一月久保村青年会がそれぞれ発足した。
花岡村では一八八九年(明治二十二)七月に民風の作興・産業の振興を目的として結成された花岡交誼(こうぎ)会のなかに青年部が設けられていたが、一九一六年(大正五)五月に分離、独立して末武北村青年会となった。ついで翌年十二月に下松青年団が結成されたことにより、全市域にわたって男子青年団の組織化が完了した。この年に他の青年会も国の方針に従って青年団と改称した。
県は一九一七年に、青年団の指導方針に関して訓令し、青年団活動の三大綱目として勅語奉読・補習教育・体力増進を指示するとともに、団員の年齢を二〇歳以下に規定した。つづいて二〇年六月には重ねて訓令を発し、団員の年齢を二五歳に延長した。またこれまで青年団の団長以下幹部の役は小学校長・教員・町村長・吏員が兼務し、団員の指導に当たっていたのを、団員のなかから推挙することとし、青年団員が自主自立、自治的に運営するように改めた。さらに二二年五月に「青年団指導ニ関スル件」の通牒を出し、従来の青年団設置要項準則を改訂して実業補習学校終了後の修養の重要性を強調するとともに、前述の青年団活動の三大綱目に社会奉仕を加えた。
他方、女子青年についても県は一九一九年に訓令し、処女会の設立を督励した。本市域においては米川村では、これより早く一九〇九年(明治四十二)三月に米川村処女会が誕生し、その他の町村では一九年から二二年にかけて、久保・中村・花岡・末武南の各村に処女会が組織され、下松町では下松女子修養会が発足した。活動内容は男子青年団とほぼ同様であるが、他に婦徳の涵養、生活の改善が加えられていた。この処女会も県の指示に従って一九三〇年(昭和五)ごろから女子青年団と改称した。
他面、本章、4で述べたように、勤労青少年に対し青年訓練所・青年学校が開設されて軍事教育が実施されるようになり、さらに戦局の推移とともに、青年団に対する国家統制もしだいに強化されていった。
一九四一年三月、文部省は高度国防国家体制建設の要請に即応し、青少年の強力な訓練体制を確立するため「大日本青少年団ニ関スル件」の訓令を発し、従来の大日本青年団・大日本連合女子青年団・大日本少年団連盟・帝国少年団協会を統合して新たに大日本青少年団を発足させ、本県もこれに従って山口県青少年団を結成した。
本市においては翌四二年四月に下松市青少年団を組織し、要地青少年団下松大隊に指定された。団員は三〇〇〇人におよび、必勝の信念の堅持、国土防衛に挺身、職域奉公に邁進、心身の鍛錬を実践四大要目とし、強力な銃後活動を展開した。