社会の伸展とともに、婦人の自覚もしだいに高まり、明治の中ごろからその修養団体として婦人会の設立が見られるようになった。本市域において、末武北村で一九一一年(明治四十四)三月に大黒丁婦人会が誕生し、次いで一九年(大正八)五月に宗教的婦人団体、四恩婦人会が発足したが、いずれも永続するに至らなかった。下松町では二六年十二月に各地区の婦人会が合体して下松町婦人会を結成した。米川村では二八年(昭和三)八月米川仏教婦人会が誕生、これより少し遅れて米川村婦人会も発足した。久保村では三一年四月に地区婦人会が合併して久保村婦人会を設立した。末武北村、末武南村においても同じころ村婦人会が結成されたものと思われる。
当時の婦人会は、良妻賢母にして一家の主婦たる本務を尽くすのに必要な修養を目的とし、婦徳の涵養、風教の刷新、生活の改善、教養の向上、勤倹貯蓄の実行、保健衛生思想の普及、社会奉仕などを努力目標として活動を展開した。
このような自発的、自主的な婦人会組織とは別に、一九〇一年(明治三十四)に中央において、銃後の軍事救援団体として愛国婦人会が創立され、同時に愛国婦人会山口支部が結成された。本市域の各町村でもこれに応じて愛国婦人会が設立され、その会員数は一九三九年(昭和十四)四月の調査(「下松市制具申書」)によると、下松町七一四人、久保村五九五人、末武村南四四五人、花岡村八一四人、計二五六八人となっている。さらに満州事変勃発の翌年一九三二年十二月には、陸海軍支援のもとに大日本国防婦人会が設立され、本市域内においても国防婦人会の支部を結成して軍事扶助の活動に挺身した。
その後、戦局はますます重大化し戦時体制強化のため、四二年二月に政府は閣議決定によって、愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本国防婦人会を統合して新たに大日本婦人会を発足させた。本市においては同年五月に大日本婦人会下松支部を結成し会員も六〇〇〇人に及んだ。出征兵士への慰問文・慰問袋の発送、出征戦没遺家族の慰問、必勝国民貯蓄の増強、託児所の開設、農作業の奉仕などに取り組み、銃後の奉仕活動に総力を結集した。