一八六八年(慶応四年九月、明治と改元)三月に神仏判然令が発せられ、長い伝統をもった神社の社坊制度が廃止された。ついで七一年(明治四)五月に施行された社格制度によって、花岡八幡宮・降松神社は郷社に列せられ、切山八幡宮・松尾八幡宮・深浦八幡宮・笠戸神社は村社に指定された。その後、花岡八幡宮は一九二三年(大正十二)三月に、降松神社は二八年(昭和三)十月に、それぞれ県社に昇格し、米川神社は三五年四月に村社に列せられた。
旧萩毛利藩領地の住民は花岡八幡宮・切山八幡宮・深浦八幡宮・笠戸神社の氏子となっており、また旧徳山藩領地の住民は北辰妙見社(一八七〇年に降松神社と改称)・松尾神社(花岡生野屋)の氏子となっていて、団地は別として在来の民家では藩政時代の氏子関係が、いまなお強く残存している。このほかに、各地区に神社・小社・末社・小祠が数多く存在し、地区住民の厚い信仰によって祭事や維持・整備が行われていた。
平穏と生活を守る氏神信仰も、満州事変勃発後は、国家の戦勝祈願や出征軍人の武運長久祈願が中心となり、神社への参拝・奉仕が強まっていき、神社もまた軍国的色彩を濃くしていった。一方、戦没者の英霊を合祀するため一八六六年(慶応二)春に郡別招魂場新造方仰せ付により、末武上高塚山に招魂場が設立され、七四年(明治七)に官祭招魂社に列せられた。一九三九年(昭和十四)八月招魂社制度の改正により、花岡護国神社と改めて神殿を造営し、同年十一月市制施行のさい、下松護国神社と改称した。