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民主化と公職追放

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 一九四五年(昭和二十)八月十五日、終戦の詔勅が発せられて、長く苦しかった太平洋戦争は終了した。この敗戦は、大陸・南方の島々で、百数十万人の戦死者と数百万人の未復員者を出し、莫大な物資を消耗し、明治以来獲得、開発してきたすべての植民地を失い、数百万の未帰還者を出した。一方、国内は、B29の蹂躙(じゅうりん)にまかせ、多くの都市は焼土と化し、産業施設は破壊され、甚大な戦災死者、戦災者を出した。そのうえ、極端な食糧不足に加え、衣類・住宅・諸物資の不足や過去に経験したことのない敗戦による人心の虚脱等、大混乱を呈した。その中で、国民はひとしく生きるための糧を求めて右往左往するばかりであった。
 下松市では、四五年五月十日から終戦まで六回の空襲によって、死者一二六人、負傷者七四人を出し、日本石油、日立製作所等の産業施設が潰滅的打撃を被り、また、民家は恋ケ浜・洲鼻・高砂町・豊井・中島町・江の浦等において、一五八棟の全壊、半壊という損害を受けた(第四編第七章・2)。しかし、隣接の徳山市とは違って焼夷弾空襲を受けなかったので、街全体が焼土とならず、住宅を何とか確保できたのは不幸中の幸いで、市民は冷静に対応し、大きなトラブルはなかった。しかし食糧の配給は底をつき、市民の大半は食糧の買出しに連日追われ、夜は家族の者の顔がやっと見える程度の電灯(蠟燭(ろうそく)送電)の下で雑炊を口にしながら、未復員・未帰還の家族や親族のことや、近く進駐して来る連合軍のことなどが主要な話題となった。しかし、空襲サイレンに脅かされることのない日々は、不安で暗い世相の中にも何か明るさを感じさせていた。
 終戦後まもない八月三十日、連合国軍総司令官マッカーサ元帥が厚木に到着、九月二日には米戦艦ミズリー号艦上で、日本政府代表重光葵が降伏文書に調印、連合国最高司令官総司令部(GHQ)が東京に設置され、日本の間接統治が開始された。日本の国家体制を変革し、民主化を意図するGHQは、日本政府に対し、民主化指令をつぎつぎに行い、実施を監視した。翌四六年十一月三日、明治以来の欽定憲法に代わる日本国憲法が制定され、翌年五月三日をもって施行された。また前後して諸法規も整備改正され、我が国の国家体制は大きく変わり、民主化が一挙に推進されていった。
 四六年一月GHQは、日本民主化の一環として、日本政府に対し公職追放を指令した。その対象者は国家主義、軍国主義をもって戦時中指導的な立場にあった陸海軍幹部軍人、政界・財界の首脳、大政翼賛会、在郷軍人会の幹部などであった。同年十一月、指令は地方の公職にも拡大、適用され、戦時中から市町村長、県議会議員、市町村議会議員、町内会長などの任にあった者は、ほとんど辞職を余儀なくされた。山口県では約三〇〇〇人が公職を追放された。
 下松市長田岡勝太郎(岩国市出身海軍少将)もその一人で、四六年度の予算が成立した同年三月退職した。同市長は祖国再建のため、学校教育、社会教育の重要性を論じ、下松女子商業学校の校地買収費(四五万円)を市議会の時期尚早意見を抑え計上したほか、社会教育予算を新規に計上するなど、混乱期に将来を見通す業績を残した。
 突然の市長の辞職で、国に後任市長の推薦を行っていなかったので、内務大臣から下松市議会に対し、つぎの命令書が伝達された。
    内務省発地第七〇号
       命令書
           山口県下松市会
   其ノ市市長候補者四月十七日迄ニ推薦スベシ
     昭和二十一年三月十八日
          内務大臣 三上忠造印