下松市長代理助役江口健介は、三月緊急市議会を招集、後任市長候補者の推薦を市議会に諮(はか)った。市議会では前例によって、正・副議長に木原、阿部、高橋、磯部、山口の五名の市議会議員を加え七名の推薦委員を決定し、市長推薦候補者の選出を開始した。推薦委員は、全市民の意向をくむために、町内会長代表と折衝・協議を重ね、一方、町内会長代表は市内全町内会長の集会を行い、町内会としての複数推薦候補者を決め、議会推薦委員と協議、市議会側の意向と合致したところで市長推薦候補者を決定するという手順をとった。その結果、戦後下松市中市に帰郷中の勅選貴族院議員松村義一を、下松市長推薦候補者として四月市議会に諮り、全会一致で決定、ただちに内務大臣に推薦手続きをとった。
一方、松村義一は吉田内閣の内務大臣に就任を依頼されたが、吉田自由党総裁の見解と一致せず、内務大臣就任を辞退して、下松市長就任を決意した。ところが内務大巨辞退理由が、新憲法に批判的だとしたGHQは、六月SCAP、N一〇〇七号という特別指令を日本政府に出した。内容は松村義一を貴族院から排除し、すべての公職につくことを禁止するという公職追放令であった。
このため、市議会では同月急きょ全員協議会を開催し、改めて市長候補推薦者選出の協議を行った。市民参加の公選として前例にそった市議会、町内会協議選出は、日時を要して市長の不在期間が長期化し、重大時期に市政運営上大きな支障があるため、今回は市議会で早急に選出することに決定した。再度の市議会全員協議会で、各議員が意中の人を投票した結果、池清、武居謙助、山田百三郎、小林収三、弘中伝人の五候補を選出した。同時につぎの協議会までに正・副市議会議長が市議会による市長候補者選出について町内会連合会の了解を得ることとした。六月末三回目の市議会全員協議会を開催し、投票の結果、武居謙助が最高得票者となった。続いて七月の市議会で、武居謙助を市長推薦候補者と決定し、ただちに推薦手続きを行い、八月内務大臣から任命された。
武居 謙助
市制第七十三条により山口県下松市長に任ずる
昭和二十一年八月十日
内務大臣 大村 清一印
武居市長は、初代弘中、二代田岡両市長の助役として市長を補佐した、人格円満な行政のベテランであった。
武居市政が発足したときは、GHQ監視の下に日本の国家体制と地方行政が民主化に向かって大改革が進められ、市の行政対応も困難な時期であった。一方、市民生活は食糧、生活物資の不足が深刻化し、インフレは昻進し、市行政はもっぱら市民生活維持に向かわざるを得なかった。同年十二月、下松市生活必需品組合・下松市荷受組合等を設立して、生活必需物資の確保、適正な配給に行政努力を傾注した。また同年十月下松市選挙管理委員会を設置して、新選挙制度の整備を行い、市長公選の準備を完了した。翌年二月末、武居市長は六カ月間の任命市長としての任務を全うして退職した。下松市の民主化改革は公選市長に委ねることとなった。