一九四五年十一月新選挙法が公布され、男女の区別なく満二〇歳以上の者は選挙権を有することとなり、女性の政治への参加が決まった。続いて四七年五月三日日本国憲法の施行と同時に、地方自治法が施行された。これらの改革によって、同年四月五日知事及び市町村長、二十日参議院議員、二十五日衆議院議員、三十日県議会議員、市町村議会議員の各選挙が全国一斉に行われた。地方自治体の首長が内務大臣の任命制から住民の直接選挙に改革されたことは、地方自治に対する国の統制を排除し、自治権の確立を図る画期的なことであった。また地方自治法の施行により、自治体の首長とともに地方議会の権限も大いに強化された。さらに公職追放による指導層の退陣と女性の政治への参加は、多くの新人が登場することとなり、地方自治行政は民主化に向かって急激に改革が進むこととなった。
下松市長選挙は、三月選挙告示と同時に、石井成就(日立製作所笠戸工場勤務、下松市労働組合協議会推薦)、古村喜市(前下松市収入役)、渡辺友一(前県議会議員)、池清(元京城府尹「市長」)の四名が立候補した。有力保守系候補三名に対して、労働組合推薦の若い石井候補(三三歳)の挑戦、しかも最初の市長選挙というので、市民の関心も高く、激しい選挙運動が二五日間展開された。四月五日投票、翌日開票の結果、四名の候補者はいずれも有力で、有効投票の過半数を得票する候補者がなく、一位石井、二位古村(五票差)の両候補で、決選投票が行われることとなり、再度選挙戦に突入した。選挙運動は保守系古村候補有利で始まったが、青年石井候補の急追によって伯仲した選挙戦となった。四月十六日開票の結果、市民大方の予想に反して、石井候補が古村候補に六〇〇票余りの差をつけ、下松市四代市長として当選した。
市長選挙に続いて、四月三十日行われた市議会議員選挙には、八七名という立候補者があり、激しい選挙運動が繰りひろげられ、三〇名の新市議会議員が誕生した。ここに公選市長のもとに、民主自治市政が発足した。
石井市政が発足した四七年は、三月町内会廃止の政令が出された。町内会は、戦時中食糧増産・物資配給・貯蓄増強・納税及び役所事務の町内への通知・徹底、戦意の高揚等の業務を行い、会長の下にそれぞれの部長・班長があって市政の運営上、上意下達の強力な実行団体であったが、会長の追放に続いて町内会も四七年三月末日限り解散の政令が公布された。そこで行政運営上困った市は、連絡員制度を設け、各町推薦の連絡員にいくばくかの手当を支給して、おもに市役所の末端機構として市民への行政連絡に当たらせた。しかし、なお不十分なため、七月一日下松、久保、花岡、末武、豊井、江の浦の各地区に市役所支所を設置した。
また三月民主化教育の根幹となる教育基本法が施行され、四月から六・三制学校教育が義務づけられることとなり、さらに五月新憲法、地方自治法の施行による行政の改革、その他農地改革をはじめ民主化の諸改革が始まった。
この事態に、市長は市役所内部の近代化・民主化・能率化を図るため、人事機構の刷新を推進した。とくに補佐役の助役には、新旧の思想に通じ、誠実、有能な市総務課長高田秀次を、市議会の同意を得て抜擢、任命し、一年間をかけて新体制を整備した。その後も、情実に流されない公平な人事と、長期的展望にたった職員育成に努め、新規採用は人物、実力を重視し、市長出席のもとに試験採用を行った。石井市長は自著『回顧七十年』に「一二年間の市長在任中種々の仕事をしたが、その最大のものは、市役所の人事機構の大改造による、体質改造された職員体系である」と述べている。