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主食の供出と配給

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 戦時中は、戦時体制のもとで厳しい統制と、国のためという精神的支えで、主食の供出は順調であったが、戦後民主化の浸透、インフレの急激な進行、ヤミの横行は農家の供出意欲を低下させ、主食(米・麦・馬鈴薯・さつま芋)の供出量確保は市の重要な行政課題となった。供出量は国・県を経て市町村に割り当てられ、市は農業調整委員会で審議し、各農事実行組合(各町内に設置)に割り当て、各農事実行組合が各農家に割り当てる仕組みであった。当時の下松市供出量は表1のとおりである。戦後数カ年は、米の不供出農家に対し、供出量の確保と公平を期するために、市では警察署の応援を得て、強権発動を行わざるを得なかった。とくに四六年には二〇〇戸の不供出農家に強権発動を行った。
表1 年次別主食供出実績
年次さつまいも馬鈴薯
1945年14,4823,68852,00049,634
 46 9,1681,94061,1379,983
 47 7,6492,183
 48 8,2002,28352,700
 49 8,4701,92440,000
 50 6,8901,739

 一方、農家も肥料不足(配給量硫安反当たり三貫程度)に加え、病害虫駆除の農薬や農作業具もなく、増産の方途がなかった。四九年ごろから、肥料、農機具などの国内生産が増加し、食糧生産も軌道にのり、増産とともに供出もしだいに緩和の方向に向った。
 米・麦・麦粉・麦粉製品、雑穀・さつま芋及び馬鈴薯が、主食として大人一日米換算(米以外は換算率により米量とする)二合一勺(一合九勺の時期もある)が配給されることとなっていた。配給方法は、市役所が各家庭に交付する食糧通帳によって、指定の米穀店から配給を受ける仕組みとなっていたが、規定量を既定期日に配給できない「遅配」が通常であった。当然のようにヤミ米が横行して、月収一〇〇〇円程度のとき、ヤミ米は一升一〇〇円以上(配給価額二円程度)という値がついた。農家は保有米(大人一日三合三勺)を雑炊、屑米などで食い延ばし、数俵の手持ちを作り、ヤミルートで売る。非農家は晴着や貯金を引き出し、厳しい取締りの目を掠めて買い出しに行くのが日常という深刻な状況であった。この状況下で、主食配給量を確保して遅欠配を少なくすることは、市政の最重点施策であった。
 下松市で配給する食糧は、市内農家の供出米(政府買上米)では半分にも達せず、不足分は各町村の農業会倉庫に保管してある政府米を、県の指示で出荷してもらい、配給量を確保することになっていた。しかし指定量が期日どおり届くことは少なく、市では市長をはじめ関係者が各町村を廻り、出荷を懇請するという苦労を重ねた。この食糧危機も、生産の増加にあわせ、米国からの輸入援助食糧の増加によって四九年ごろからしだいに緩和した。