下松市の基幹産業である工業は、一九四六年には四大工場(日立・鋼鈑・笠戸船渠・日石)を中心に戦災から復旧し、原料難を克服して操業を再開して、工業生産は順調な進展をみせ、戦後一時期停滞した市勢に活気が甦り、人口も増え始めた。四八年には人口三万八五三〇人と終戦前の人口を超え、食糧危機も緩和の徴候が現れ、下松市の順調な発展が期待された。しかし、日本経済は悪性インフレが進行していた。このインフレを抑止し、経済の安定と自立を図るため、アメリカ政府は同年十二月、連合国軍最高司令官に対して日本経済安定九原則を提示し、翌年総司令部はその実施を日本政府に指示した。このため、国、地方ともに均衡、緊縮予算となり、官公庁は行政の合理化を余儀なくされ、民間企業も企業の合理化を行い、デフレ政策の中での生き残りを図ることとなった。
下松市においては、笠戸船渠は造船融資削減により新造船の受注が減り、日立製作所も戦後の国鉄再建による機関車、車両の大量受注で好況を呈していたが、一転して受注が減った。また東洋鋼鈑は単一替為レート設定のため、原料高の製品安となって利益が激減し、各工場の経営合理化が予測される事態となった。
人員整理を必至とみた下松地区労働組合協議会(地区労)は四九年四月下松地区産業防衛会議を組織して、下松市長、市議会に、参加共闘と経費の援助を要請した。産業防衛会議の目的は、吉田内閣が経済安定九原則を推進し、それによって日本産業を破壊し、雇用の場をなくするものであるから、内閣を打倒し、労働者の基本権を守るというものであった。これに対し市議会は、産業振興には最大の協力をするが、内閣打倒を目的とした産業防衛会議には参加できないと回答した。一方、下松市議会では産業振興対策委員会を設置し、産業を振興して雇用の場を守り、市の発展を図ることとして、国、各企業本社等に産業振興を陳情するほか、企業所有地を農地法による土地買収対象の除外地にする特別決議をするなど、活発な活動を行った。