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市議会のリコール

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 地区労は下松市議会の産業防衛会議不参加の態度に納得せず、一九四九年六月二十八日西村正雄は下松市議会解散請求の代表者証明書交付申請を、下松市選挙管理委員会に提出した。同時に下松市政改新期成準備会を設け、市議会解散請求に必要な署名運動、宣伝活動、労働組合員の動員等の準備を行った。これに対し、市議会は七月二日声明書を市民に配布して、産業防衛会議に不参加の理由と、不当なリコール運動について理解を得ることとした。他方、市政改新期成準備会は、七月八日「下松市議会解散請求について、市民の皆様へ!」という新聞折込み広告を発行して反論するとともに、労組員多数を動員して一挙に法定署名数の獲得に走った。
 市議会議員が署名運動阻止に手を拱いているあいだに、署名者は九二五七名に達し、八月三日下松市議会解散請求申請書に署名簿を添え、下松市選挙管理委員会に提出した。選挙管理委員会は名簿照合を行い、九月五日有効署名数が法定数六九六七名を超えていることを確認して、下松市議会解散請求書の受理を決定した。
 市議会では近く下松市議会解散請求賛否投票が執行されるとみて、八月四日から各議員が手分けしてリコール反対懇談会を開催し、市民にリコールの不当性と現議員の市政に対する熱意を訴え、理解を得ることに努力した。さらに議員代表者が県選挙管理委員会にリコールの不当性を事情説明に出張するとともに、市選挙管理委員会に対して、署名簿中に不正記載があるとして異議申立てを行った。また市議会解散請求書に対する弁明書の提出をするなどの努力をしたが、いずれも却下され、十月五日下松市議会解散請求賛否投票の執行が告示された。
 賛否投票を目前にした九月十二日、石井市長は市議会に「公安条例」(行進および集団示威運動に関する条例)を緊急提案した。この条例は当時全国的に無秩序、破壊的な労働運動が目立っていたので、これを防止、規制して、秩序ある労働運動にするため、国、県が各市に条例設置を勧告したもので、県案を手直ししたもので八条からなっていた。議会は市長の提案説明で十分納得できるとして、委員会付託審議、質疑、討論を省略して採決、可決した。
 この事態を知った地区労は激怒して、リコール運動に異常な執念を燃やし、連日市民に賛成投票を呼びかけた。受け太刀の市議会も、議員を動員して、市民にリコールの不当性を訴えたが、保守層への浸透がいま一歩足りず、十月五日執行された下松市議会解散請求賛否投票の結果は投票率四八・四四パーセントと低調で、賛成五三二二票、反対四八五九票で、ただちに選挙管理委員会から下松市議会に、解散請求成立の旨が通知された。
 市議会では十月七日下松市選挙管理委員会に対し、異議申立書を提出し投票の無効を申し立てたが、十月十一日選挙管理委員会から投票有効の決定書が出た。さらに三十一日、山口県選挙管理委員会に対し、議員二七名が議長藤田準一ほか二名を訴願人総代として、賛否投票は無効である主旨の訴願書を提出した。県選管で再審査された結果、翌年一月十六日訴願を棄却する裁定が下された。最後の手段として、市議会側は、二月十六日広島高等裁判所にリコール無効の訴えを起こしたが、七名の議員がつぎつぎに辞職し、三月三日残り議員もすべて辞職願いを提出した。五日下松市議会は解散し、六日訴状を取下げ、ついにリコールが成立した。これによって、戦後二度目の市議会議員選挙に突入することとなった。
 選挙には、被リコール前議員、地区労推薦新人、保守系新人など多数の立候補者があり、自転車応援団を繰り出し、街頭・演説会場で激しい舌戦を展開した。市民の選挙への関心も日を追って高まり、四月二十日投票の結果、九一・二四パーセントという空前の高投票率を示し、前議員八名、新議員二二名(内、地区労四名)の市議会議員が選出され、混迷した下松市政はようやく落着した。
 さて、下松市政が市議会議員リコールで揺れた四九年、隣接の徳山市で八月一日に旧富田町、九月一日に旧福川町が、住民投票の決定によって分離独立し、富田町・福川町として再出発した。これに刺激され、十月花岡地区・久保地区に分離独立運動が発生した。この分離運動は、当時流行の地方自治の民主化を唱え、地区住民に決起集会参加を呼びかけ、下松市政の海岸線地帯偏重を批判した。しかし、余りに地域エゴがあらわで、独立後の財政的裏付けもなく、とくに旧花岡村・旧久保村は、北部と南部地区で事情が異なって、賛成者が少なく、住民意識の大きな盛り上がりがみられなかった。五〇年四月リコール後の選挙に、花岡・久保地区ともに、多くの地区推薦市議会議員を当選させ、分離運動も収束した。