石井市長は一九四七年四月市長就任と同時に、戦後の混迷時こそ、長期的視野に立った民主市政の方途を確立する必要があるとし、下松市総合立市計画を立案し、同年八月市議会に諮った。
市議会では、未曽有の苦況と改革をいかに乗り切るかが当面の重要課題であり、この計画は財源的裏付けもなく、時期尚早の意見が強かった。しかし若い市長の情熱と説得に、ついに承認議決した。その実施計画はつぎのとおりであった。
(一) 既存の東部海岸工場地帯とあわせて西部海岸に工場誘致を行い、本市南部海岸地帯を一大工場地帯として整備する。
(二) 人口一〇万の都市実現を想定し、下松市を港湾・大工場・中小工場・工場付属施設・商業・住居・公共・教育・農漁地区に区分し、港湾整備、貿易港の指定、河川改修、道路網の整備を促進する。
(三) 本計画実施については、県土計画との照応、農地改革との調整、隣接市町村との総合的発展を考慮する。
(四) 末武・花岡・久保を衛星農村として性格付け、農業の近代化・保護・育成にあたり農工共栄を策定する。
(五) 水資源確保のため温見ダムの建設を促進し、米川村を衛星農村として考慮する。
(六) 徳山市のうち笠戸湾に面した大島半島、末武川下流地区については、産業立地、地理的条件からみて、下松市へ行政区画の変更を考慮する。
(七) 十万都市実現をめざし、早急に抜本的な都市計画を樹立する必要がある。
(八) この計画は市政の今後の在り方、市政の大綱を示す根幹である。当面の施策とは一致せず矛盾はあるが、年次予算編成のさい実現を計る。
この理想的十万都市実現を目途とした大計画は、しかし六・三制教育などの戦後改革問題に追われて財政が伴わず、また市民の政治意識も低く先送りとなった。
これに対し、市長は工業文化都市建設の基礎をつくりたいと、五〇年九月下松市総合都市計画審議委員会(市・市議会・学識経験者で構成)を設置し、産業・交通・上・下水道、環境の各部門について、建設省の指導の下に、モデル都市の指定(全国二〇市指定)を受け、総合都市建設計画案を練った。さらに翌年四月、任期満了によって執行された市長選挙では、石井市長が圧倒的な支持で当選を果たし、二期目の市政を担当することとなった。就任に当たって、「正しい民主政治は、市民の批判を正しく感謝の念で受け止め、要望にこたえ、市民に満足のいくような市政運営を行うことである」と抱負を述べた。七月市役所の大機構改革を行い、総務・建設の二部制とし、多様化する行政の機能化を図った。五三年懸案の都市計画市街地総合計画を成案し、建設省の認可を得て計画決定し、市民に広報した。この計画は七一年を目標に、人口八万人の工業文化都市を実現するというもので、市長は計画決定に当たって「下松市百年の大計である大計画達成のために、万難を排して邁進する」と決意を表明した。