ビューア該当ページ

米川村の合併

847 ~ 849 / 1124ページ
 下松市待望の温見ダムが、県営灌漑排水事業として一九五三年二月着工され、下松市と米川村のあいだには緊密な結びつきが生じた。一方、同年九月「町村合併促進法」が公布され、自治行政・財政力強化のため、山口県では十一月町村の合併を推進することとした。これに伴い県内の市町村では合併問題が急にクローズアップされ、その動きが出始めた。
 下松市では、翌五四年三月市議会において、「下松市の水を確保するため、米川村に大変迷惑をかけているが、万一、米川が他市と合併すれば、将来、下松の命脈にかかわる。市長は米川との合併に強い関心を持つべきだ」との質問に対し、市長はつぎのように答弁している。「米川村とは特別な因縁があるので、合併すべきものと考えている。しかし、それは理論であって、実際問題として市町村の合併は結婚に少し似たところがある。この場合冷静に考慮すべきで、べた惚れの恋愛結婚はすべきでない。よい仲人(山口県)が仲に立って互いの主張を理解しあい、一致したとき合併は実現する。市長が勝手に合併に向かって努力する立場をとることは、市政の担当者として軽率のそしりを免れないと考えている。」
 その後、米川村・下松市双方にしだいに合併の機運が盛り上り、八月に入ると山口県の勧奨・仲介があり、合併に向かって大きく前進した。九月下松市・米川村双方に、合併促進準備委員会が設置され、ただちに合併の具体化のため諸条件の協議に入った。協議は、合併の形式・財産の帰属・職員の取扱い・建設計画等二五項目にわたる綿密詳細なものであったが、互譲の精神をモットーに協議が進められ、当時財政的に苦しかった下松市が譲歩し、わずか五日間で合意に達し、石井下松市長、内富米川村長が合併協定書に調印を行った。同時に議会を招集し、下松市は米川村の編入合併、米川村は米川村廃止編入の議決を行い、山口県知事に編入合併の手続きをとり、十一月一日国の告示があって、下松市と米川村の合併が成立した。下松市では三日市制十五周年の記念式典にあわせ、米川村の合併祝賀記念式を挙行した。米川村の面積二四・五平方キロメートル、人口二二〇〇人を加えて、総面積八七・九二平方キロメートル、人口四万三三九七人の新興工業都市となった。
 ところが、合併後間もなく米川清若・赤谷と西平谷で、都濃町に合併したいと、下松市からの分離運動が発生し、五五年一月山口県選挙管理委員会職員の立会いで、地区住民による境界線変更の署名が行われた。その結果、同地区民の大半(赤谷・清若一四四名、西平谷三四名)の署名があり、分離運動者は勢いを得て、下松市長に市町村の境界変更に関する意見書を提出した。意見書は、①地理的に須々万に近く、神社・寺院が須々万にあり、明治以前は須々万村で、現在も経済、生活的に都濃町と一体である。②進行中の錦川総合開発の一環を形成していることを理由としていた。これに対し、米川の他の地区や農協等の諸団体のなかに、地区的エゴだと強い反対運動が起き、今回の分離運動は都濃町の策動で、分離は米川地域全体に大打撃を与えるとして、つぎつぎに市長に反対陳情書を提出した。市長は赤谷、清若、西平谷地区が下松市から分離して都濃町に合併する必然的理由が少ないとして反対意向を示し、都濃町の瀧の口地区(六二年四月一日下松市へ編入合併)こそ末武川沿いで下松市に合併すべきだとした。五五年三月市議会も境界線変更申請を否決した。この結果、分離運動は漸次鎮静化した。