当時市財政には一三四四万円の累積赤字があり、そのうえルース、キジヤ台風などの大災害による災害復旧に多額の出費を要し、財政は窮迫状態にあった。しかし五一年度の税収は急増して四五五万円の単年度歳入超過となり、赤字額を八八九万円に縮小した。同年四月発足した石井市政二期目の前途は財政的に洋洋たるものとなった。そこで市長は総合都市計画の推進による工業文化都市の実現を図り、多くの事業を開始した。
ところが五四年自治体警察廃止に伴う地方税法の改正が行われ、法人市民税四〇パーセントの県税移行と、大規模償却資産の課税制限(制限外県税)が行われた。このため市税収入は五四年度二億八〇〇〇万円あったものが、翌年度には一億九八〇〇万円と激減して市財政は大打撃を受け、石井市政に一大試練を与えることとなった。
この財政悪化に対処するため、急きょ特別措置の退職勧奨によって市職員四一名の人員整理、諸経費の節減を行ったが、事業拡大による公債費の増加はいかんともなしがたかった。また教育施設整備(四カ年継続)、労働会館建設(二カ年継続)等の市事業、港湾、国、県道整備等の県事業は事業推進中であり、繰り延べ、打ち切り等の措置を講ずることはできなかった。
さらに笠戸船渠閉鎖による従業員対策のため失業対策費は増大し、五五年度末決算において八〇四一万円の歳入不足が発生することとなった。このほか末武・下松中学校・労働会館等の用地代五九六〇万円、緊急整備を必要とした久保・豊井小学校建設費一五五〇万円、合併した米川村の歳入不足一三三〇万円、計八八四〇万の特別借入金があり、実質赤字一億六八八一万円という大きな財政問題が発生した。
このとき、住民監査請求(温見ダム、水道、米川村関係等の七項目)が下松市監査委員会に提出された。これに対し市議会は、ただちに住民監査請求調査特別委員会を設置し、審査に当たった。委員会は十数回開催され、地方自治法百条による証人喚問も関係者一五人に及ぶという綿密な審査が行われたが、監査請求の内容はほとんど噂によるもので根拠に乏しく、問題となるほどの事柄は生じなかった。
五五年四月任期満了による市長選挙には、石井現市長と松田前市総務部長が立候補し、市を二分する激しい選挙戦が展開され、七九・六六パーセントという高い投票率を示した。石井市長が接戦の末、当選を果たし、三期目の市政を担当して、石井市政の総仕上げと市財政の再建を行うこととなった。市長は、長年市政に功績のあった高田秀次助役、野村国助収入役の勇退を求め、助役に河口登、収入役に磯部龍輔を登用するとともに、機構を四部制に大改革して職員の士気を一新し、財政難を克服して市政の推進を図ることとした。市民に対しては、十一月市財政の状況を公表して、財政再建に協力を求めるとともに、市議会に財政再建計画案(自主再建、地方財政再建特別措置法適用再建)を提出し、審議と全面的協力を要請した。
市議会で審議が重ねられた結果、自主再建は行政水準の低下を招き、法の適用団体となれば再建期間中国の拘束を受けるものの、受忍できる範囲であり、現状の行政を維持しながら財政を再建することが、市民にとって得策であるとの結論に達した。五六年八月自治庁長官に承認申請する財政再建計画を議決した。
十一月一億五二〇〇万円(赤字額一億六九二五万円)の再建債が認可され、五六年度から六三年度まで八カ年計画で、万難を排し、表4のとおりの再建計画に従って、財政再建を進めることとなった。
表4 財政再建債の償還計画 | 借入額 152,000千円 利率 年6分5厘(政府債) 年8分5厘(公募債) 単位円 |
年 度 | 償還年月日 | 未償還元金 | 償還額 | ||
元 金 | 利 子 | 合 計 | |||
1956年度 | 56年8月1日 | 152,000,000 | ― | 1,966,726 | 1,966,726 |
57年2月1日 | 152,000,000 | ― | 5,890,000 | 5,890,000 | |
1957 〃 | 57. 8. 1 | 141,920,120 | 10,079,880 | 5,890,000 | 15,969,880 |
58. 2. 1 | 131,733,644 | 10,186,476 | 5,494,404 | 15,680,880 | |
1958 〃 | 58. 8. 1 | 121,437,107 | 10,296,537 | 5,095,343 | 15,391,880 |
59. 2. 1 | 111,026,933 | 10,410,174 | 4,692,706 | 15,102,880 | |
1959 〃 | 59. 8. 1 | 100,499,428 | 10,527,505 | 4,286,375 | 14,813,880 |
60. 2. 1 | 89,850,779 | 10,648,649 | 3,876,231 | 14,524,880 | |
1960 〃 | 60. 8. 1 | 79,077 049 | 10,773,730 | 3,462,150 | 14,235,880 |
61. 2. 1 | 68,174,173 | 10,902,876 | 3,044,004 | 13,946,880 | |
1961 〃 | 61. 8. 1 | 57,137,954 | 11,036,219 | 2,621,661 | 13,657,880 |
62. 2. 1 | 45,964,057 | 11,173,897 | 2,194,983 | 13,368,880 | |
1962 〃 | 62. 8. 1 | 34,648,009 | 11,316 048 | 1,763,832 | 13,079,880 |
63. 2. 1 | 23,185,189 | 11,462,820 | 1,328,060 | 12,790,880 | |
1963 〃 | 63. 8. 1 | 11,670,828 | 11,514,361 | 887,519 | 12,401,880 |
64. 2. 1 | 0 | 11,670,828 | 446,302 | 12,117,130 | |
計 | 152,000,000 | 52,940,296 | 204,940,296 |
利子年4分2厘を越える部分は政府より利子補給 |
下松市の発展と財政再建を図るためには、広大な工場適地に工場誘致を計画する以外に良策はなく、「山口県工場誘致条例」にならい、五八年十二月、「下松市工場誘致条例」を制定した。条例の骨子は、投下大規模消却資産総額の二百分の一相当額の範囲内で、企業のための公共投資(港湾整備、道路建設等)をするか、または相当額の固定資産税を免除し、企業の便益を図り、工場誘致を勧奨しようとするものであった。東洋鋼鈑の大拡張、中国電力下松火力発電所の誘致に成功、適用されたが、その後工場公害がクローズアップされた七一年十二月廃止となった。
一方、工場誘致の積極策として五七年公有地確保特別会計を設置し、全額借入金(四一五〇万円)で西部海岸地区(東、西開作)に二万三八〇坪(坪当たり二〇五〇円)の工場適地、鉄道引込線用地を取得して対処した。このような工場誘致努力により五九年二月東洋鋼鈑が五基連続冷間圧延機工場を完成させて運転を開始し、続いてビニール被膜鋼板(ビニトップ)生産設備の建設に着手した。沈滞した下松市に雇用の増大による活気を与え、六〇年度から六四年度の五年間に一億五四四四万円の固定資産税(大規模償却資産)が見込まれ、市財政は大きく潤うこととなった。
また、六〇年三月中国電力下松火力発電所の誘致が決定し、中国電力は市の協力で約四〇万平方メートルの建設用地(東潮上農地九万平方メートル、西市日本石油精製所有地一五万平方メートル、海面埋立一六万五〇五七平方メートル)を買収、造成(公有地確保特別会計で確保した二万三八〇坪は換え地に提供して売渡し、六一年会計を廃止)して、六二年十一月下松火力(重油)発電所一期工事(一五万六〇〇〇キロワット)に着工した。これによって下松市は鉄鋼、機械、石油産業にあわせて電力供給地として将来の発展が期待されることとなった。