一九五九年四月、石井市長は、任期満了に伴い三期一二年間にわたる下松市長の職を退任した。石井市長の業績は、前述のとおり戦後の激動期を克服し、下松市を工業文化都市にする目標をたて、行政・教育・産業・交通・都市計画等すべての面で基礎づくりを行ったことである。なかでも特筆すべきは温見ダムの建設と上水道の敷設、小中学校の整備・統合、笠戸船渠の再開であった。
四月の市長選挙は、河口登以外に立候補者がなく、初めて無投票当選を果たした。これは、建設部長、助役として市役所在任中その人格、行政手腕が高く評価され、市民の信望をあつめていたからである。
河口市長は、助役に総務部長山中健三を任命して、財政再建、都市計画の推進等、前市長の施策を継承するとともに、河口市政として「和こそ力の根源、和の心をもって納得のいく市政、明朗な市政をうち立てる」との方針を示した。十一月三日市制二十周年を迎えたが、財政再建のため簡素に記念式典等諸行事を行い、その中で市長を奴頭(やっこがしら)にした大名行列が街を練り歩いた。翌六〇年下松市の東西を結ぶ幹線道路である国道二号線の新設改良事業が建設省直轄で開始され、また南北の幹線街路である県道下松-田布施線(幅一五メートル、森崎以南)の改良が県事業として開始された。市は財政再建中であったが、工場誘致により展望が開け、工業文化都市建設を目指して、懸案の駅裏土地区画整理事業、都市計画街路の建設、市道、農道整備等を進めることとした。
また、市民の体力増進の施設として市制二十周年記念事業を兼ね、運動公園(市民体育館、五〇メートルプール)の建設に着手し、五〇〇〇万円の事業費で六五年九月完成した。
六三年四月施行の市長選挙は、河口市長の人柄と工場誘致、都市計画事業を始め各種の建設事業に示した行政手腕、行政水準を落さない財政再建等、市民の高い評価を受け、対立候補者はなく、再度無投票当選を果たし、二期目の河口市政が発足した。
同年十月二十八日-十一月一日山口県で開催された第一八回国民体育大会では、下松市でハンドボール競技が行われ、新設の体育館を主会場とし、末武・下松両中学校とで熱戦が展開された。国体のため来県された天皇、皇后両陛下は、十月三十日正午下松着、市民体育館においてハンドボール競技を御観戦、市役所で昼食の後、一四時下松駅を出発された。この国体には下松市に全国から六〇〇余名の選手団を迎え、市民の全面的協力のもとで成功のうちに幕を閉じることができた。
また国体を契機として、国体のスローガン「友愛・奉仕・躍進」を目指し市民と行政とが一体となって、親切運動、花いっぱい運動、スポーツの生活化運動など健民運動が強力に進められ、その後各種のアマチュアスポーツ団体が生まれ、全国大会に出場するなど、成果をもたらした。特に花いっぱい運動は「下松市花いっぱいの会」が結成され、家庭、地域、職場に花と緑の豊かな街づくりを定着させた。