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工業整備特別地域の指定

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 日本経済の高度成長に伴い、東京・大阪・名古屋等の大都市圏に産業と人口が過度に集中し、都市施設の立ち遅れ、産業公害の発生、地価の高騰などの深刻な都市問題が発生した。半面、地方では開発の遅れ、農業の衰退による過疎問題が発生し、地域格差は拡大の一途をたどった。
 この対策として、政府は地方に工業開発拠点都市を育成し、それぞれ地方の経済圏を作り、大都市集中を防止し、あわせて地域格差の是正と雇用の安定を図るため、一九六二年十月全国総合開発計画(「新産業都市建設促進法」の制定)を策定して閣議決定を行った。中央でこの動きが表面化すると山口県は周南地区(光・下松・徳山・防府市・南陽町)の代表者を集め、県の構想を示して、県、周南地区が一致して新産業都市指定実現に強力な運動を展開することを申し合せた。指定地域になると産業立地条件(道路・港湾・用水・工業用地等)の整備や、都市施設(住宅、上・下水道・公園・緑地等)の整備に国の投資が期待され、全国で四〇カ所以上の地域が指定を受けるため激しい陳情を繰りひろげた。周南地区では六二年九月、関係市長が「新産業都市建設促進協議会」を結成、県も「周南新産業都市建設促進本部」を設置し、指定運動を一層強力化するとともに、翌年一月山口県は新産業都市建設計画に関する基礎調査書を政府に提出した。
 当時下松市は中国電力下松火力発電所の建設、東洋鋼鈑下松工場の大拡張計画中であり、市は下松駅を中心とした都市計画駅裏区画整理事業がようやく緒につき、河口市長構想の東部海岸二〇〇万平方メートルの大埋立てと工場誘致、笠戸島と本土を結ぶ夢の架橋をなんとか実現し、工業文化都市として躍進しようとする時期にさしかかっていた。下松市を含む周南地域が新産業都市として指定されることは、財政難の下松市にとって公共投資に大きな影響を与えるものであったから、県知事・関係四市一町の市町長・市町議会・関係県議・商工会議所・工場の代表者と一致して猛運動を展開した。
 六三年七月政府は、新産業都市の候補地区として名乗りをあげた全国四四地域のうち一三地域を指定したが、周南地域は猛運動のかいなく、指定地域とならなかった。その理由は周南地域はすでに工業化の熟度が高く、指定対象としての条件に欠けるとされたからである。しかし、政府は工業化が進み、民間投資の熟度は高いが、公共投資の遅れている地域にこそ、優先的な公共投資によって高い投資効果が現れ、国土の開発、経済の発展が期待できるとして、新産業都市とは別に工業整備特別地域という構想をもつに至った。こうして周南地域は同日の閣議で鹿島・東駿河湾・東三河・播磨・備後地域とともに、工業整備特別地域(いわゆる工特地域)に指定された。
 六三年八月、工特地域をもつ関係六県で工業整備特別地域開発促進協議会を結成した。十月徳山市長の呼びかけで、前年結成された新産業都市建設促進協議会を周南地域工業整備特別地域開発促進協議会に改め、さらに十一月全国の工特地域関係市による工業整備特別地域都市協議会を設置し、各協議会が一致して工特地域の立法化促進を図った。翌六四年七月「工業整備特別地域整備促進法」が公布施行され、九月下松・徳山・光・防府市および南陽町の四市一町が正式に工特地域に指定された。下松市は、他の三市一町とともに、新構想による基本計画、整備計画を進め、前述の市長構想を実現し、市勢の発展と市民福祉の向上を図ろうとした。その矢先の同年二月、河口市長は病魔に倒れ、四月逝去した。
 河口市長は、市政五年間に前市長から引継ぎの都市計画事業、特に難問題であった駅裏土地区画整理事業の着工、工場誘致(中国電力下松火力発電所)、各小中学校の整備(体育館、プール)、市道の舗装と整備、下松港の整備(第一公共埠頭の着工)等をなし遂げ、新たに運動公園(体育館、プール)の建設、市民館の着工、第一八回国民体育大会のハンドボール競技の成功、周南工特地域の指定、財政再建の完了等多大な業績を残した。
 葬儀は、下松市初の市葬として山中市長職務代理(助役)が葬儀委員長となり、式場はスポーツを愛した市長が、市制二十周年記念事業として建設したゆかり深い市民体育館でしめやかに営まれた。祭壇には「花と緑の街づくり」を唱えた故人の遺志にそって、菊とバラの花二五〇〇本が飾られた。橋本県知事、県内各市長、市内各界代表者、市民一五〇〇人が参列し、市長の死を惜しみ焼香した。