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ごみ処理施設の建設

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 このように広域行政が強く叫ばれる時代を迎え、衛生施設組合は広域行政のモデルとして、周南広域圏はもちろん、県、国からも事業の推進に援助が約束された。そこで組合は、県や国の技術援助を得て、無公害ごみ処理施設の研究調査を進め、東京都、京都市等の大都市で採用設置されて好成績を上げ、その上公害の少ない連続焼却炉方式に決定し、設計に入った。しかし、ごみ処理について市民のイメージは悪く、ごみ処理の必要性は誰もが認めながら、設置場所については反対の声が高かった。
 衛生施設組合では二カ年をかけ設置場所を求めたが解決に至らず、組合構成三市のごみ処理は行き詰まり、当面の政治課題となった。
 この状況下で、中国電力より、下松火力発電所用地の一部(西沖臨港道路沿い一万二〇〇〇平方メートル)を譲渡してもよいとの話があった。検討の結果、同場所が都市計画の工業専用地域であること、最も近い西市、中島町からも二〇〇メートル、以上離れていること、臨港道路を経て国道一八八号に接続し、交通至便であること、ゴミ収集車が一般生活道路を通過しないこと、北側を緑地公園化すれば清掃工場のイメージがよくなること、最新技術を採用した工場であれば悪臭、排ガス等の公害を最小限にくい止めることができること、組合構成三市の中央で距離的に近いことなどを勘案して、山中市長は七一年九月、大英断をもって西沖下松火力発電所用地に、ごみ焼却処理施設として、最新鋭清掃工場の建設を下松市議会に発表した。
 当時は高度経済成長の反省から、公害問題がマスコミに大きく取りあげられ、市民の公害意識も過敏になっており、西市東、南を中心に設置位置反対運動が起き、三市共同ごみ焼却場対策委員会が結成された。このため、近隣地区に対する市の清掃工場建設基本方針説明会も満足な説明ができなかった。さらに対策委員会は市内全域に署名運動を展開し、同年十二月下松市長に一万一一七人の反対署名簿を提出し、続いて市議会に設置場所再検討の請願書を提出した。七二年一月市議会はこれを不採択とし、ごみ処理施設遅延による清掃行政の停滞を憂慮し、下松清掃工場建設促進意見書を議決した。また下松市環境衛生推進協議会、下松市連合婦人会、下松市社会福祉協議会も清掃工場建設促進のため、市民の理解と啓蒙に当たった。
 下松市では衛生施設組合構成市である徳山、光市と計画中の清掃工場の公害防止と近隣地区環境保全対策(事業費八〇〇〇万円)のため、三市協定書と覚え書を締結し、続いて、衛生施設組合と下松市が、法の排出規準を上回る厳しい公害防止協定を締結した。さらに市と衛生施設組合では、広報・説明会等で広く市民の理解を求め、また近隣地区住民、諸団体等の先進地視察を実施し、清掃工場に対する市民の不安解消と理解を得ることに全力を傾注した。
 その結果、反対運動も西市東、南地区を除いて落ち着いてきたので、市は都市計画法に基づく位置の決定、衛生施設組合は設計(表7の基本方針による)、建設に必要な事務手続、施工業者の決定等を進めた。
表7 下松清掃工場基本方針
 1 工事概要 
   工期昭和47年6月23日~49年3月8日
   構造鉄筋コンクリート造
   建築面積延2,789m2
   焼却炉
150t/日 2基 300t/日
 電気集じん器 0.1g/Nm3
   煙突高100m
 2 公害防止対策 
   地方自治体の直営施設であるから民間企業の模範たるべく、設備に投資を惜しまない方針で次の措置を講ずる。
   ばいじん排出量0.1g/Nm3(国の基準0.2g/Nm3)
   亜硫酸ガス30ppm以下(助燃灯油使用)
   窒素酸化物150ppm以下(炉温950℃以下に保つ)
   塩化水素将来技術開発を待って整備
   汚水処理循環使用
   騒音40ホーン以下
   じん芥悪臭外部に出さない(ごみピット負圧)
   ごみ運搬車の経路国道188号線を通行

 この清掃工場建設問題は、七二年四月の市長選挙の争点となったが、当選した山中市長は、その後も西市東、南地区住民の理解を得る努力を続けた。しかし、対策委員会は受入れを拒否して、六月山口地裁に清掃施設の位置決定処分の取消しの訴えを起こした。ついに市長は説得を断念し、翌日下松清掃工場の着工に踏み切り、同時に近隣地区(西市東・南を除く)の環境整備(衛生施設組合負担八〇〇〇万円、市公共事業二億円)を開始した。
 この訴訟はその後、工事続行禁止仮処分申請に切り換えられ継続した。その間七四年三月下松清掃工場は完成し、四月から操業を開始した。工場は市長の公約どおりの新鋭施設で、順調な運転の上に、とくに公害の発生もなく、工場周辺も緑化され、近隣の環境整備も進んで、以前より良好な環境となった。さらに市は清掃工場の建設にあわせ、工場の余熱を利用した老人福祉会館「玉鶴」(下松市社会福祉協議会経営)を西市南に建設した。この施設は市内の老人から玉鶴温泉として歓迎され、山中市政の評価が高くなった。
 なお、訴訟は継続されていたが、下松市に財政問題が発生し、七六年四月山中市長は退職した。藤田市政に代わった七九年三月、七カ年の長期にわたった紛争も和解が成立した。対策委員会が法廷闘争に終止し、後に禍根を残さなかったのは幸いであった。