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財政再建団体へ転落

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 一九六四年五月、下松市長に就任した山中市長は、施政方針で「投資的経費・政策的経常費として使用可能な額は僅か一億一〇〇〇万円しかなく、単年度の収支の均衝を図ること自体が困難である。財政再建が完了したといっても、他会計の累積赤字(特殊財産特別会計債務三億三〇〇〇万円)を考えるとき、財政運営は困難な実情にある」と述べたように、困難な財政状況であった。他方、前述のように市民は健康で快適・便利な生活環境の実現を、市政に要望する声が強くなった。このため下松市総合建設計画を策定し、その実行を図り、十万都市並みの工業文化都市の実現を目指し努力した。
 財政的には年々の一般会計の赤字をいかに少なくするかが精一杯で、特別会計の赤字を減額することは無理であった。市議会もこの事情を承知し、市民の福祉向上のためには止むを得ないとして協力の姿勢をとった。このような硬直した市財政を打破し、市勢の発展を目指して造成に入った恋ケ浜臨海工業用地には、日本石油精製の新製油所(日産二〇万バーレル)の建設、日立製作所の大拡張が計画され七六年から、莫大な税収(固定資産税年一六億円以上)が見込まれたため、七二年の「下松市総合建設計画」の見直しを行い、一層の都市施設の整備を図ろうとした。
 ところが、七三年十月、世界的石油危機が起こり、これを引き金にして買占め騒ぎ、物不足、経済混乱、世情不安によるインフレが発生した。これを抑制するための政府の総需要抑制策は、物価高の不況を招来し、これまで順調に伸展していた日本経済の成長は、一挙にマイナスに転じた。下松市の財政は、市内五大企業の税収によるところが大きく、この不況のため税収の伸びは、まったく期待できなくなった。
 一方、インフレによる高物価で、市の事業費は高騰し、また、人件費は高率ベースアップによって急膨張した。歳出は増大し、歳入、歳出の均衡を図ることは困難となった。このため市は緊縮財政をとらざるを得なくなり、七五年三月「下松市生活環境施設の整備水準」を発表して、下松市の行政水準が十万人都市と比較しても高い水準にあることを明示して、今日までの飛躍的生活環境の整備を調整し、漸進整備へと転換することに関して、市民の了解と協力を求めた。
 前年の十月恋ケ浜臨海工業用地の造成が完了し、進出予定の日立製作所、日本石油精製に土地の引渡しが行われた。続いて下恋ケ浜地区住民移転の件も、十二月周南地域公害防止計画(恋ケ浜地域緩衝緑地の造成計画と住居移転を含む)が決定し、公害防止事業団により懸案事業が推進されることとなった。また恋ケ浜臨海工業用地造成と並行して進められていた久保住宅団地の造成も、住宅公団の手で進められた。さらに、用水対策として末武川ダム(一九五六万トン)、吉原ダム(一八七万トン)、の建設計画も、山口県事業として進捗が図られ、恋ケ浜臨海工業用地への新工場建設の準備はすべて整った。
 しかし、石油ショック後、エネルギー使用は石油から石炭、原子力等多面的になり、日本経済が立直りを見せ始めても、石油消費量は伸びなくなった。このため新製油所の建設は当初計画(七四年着工、七七年操業開始)が先送りされ、着工時期は不明確となった。このため、恋ケ浜臨海工業用地に新工場を誘致し、下松市の発展と市財政の再建を実現するという一石二鳥の構想も不透明な状態となった。
 財政の硬直化(経常収支比率、表8)が進みつつあった下松市は、七五年度末には四億円を超える赤字が見込まれ、翌年度歳入の繰上充当をもって決算せざるを得なくなった。かくて、七六年度予算案は超緊縮予算とし、歳出は現状の行政水準の維持に努めるが、事業は原則的に継続事業に限るとし、必要最小限の額を計上する。管理費は圧縮し、職員の欠員は補充しない。一方、歳入は、税収、財産収入等限度いっぱい可能な限りの額を計上する予算とした。

表8 経常収支比率の推移(類団比較)

 このような財政状態に立ち至ったとき、従来市議会で黙認状態であった特殊財産特別会計と支払い繰延べなどに関連する赤字が表面化し、ついに市長は七六年三月の市議会において、つぎのように報告した。「昭和五十年度の一般会計における赤字見込みが七億三〇〇〇万円となる。これは標準財政規模の二〇パーセント、五億六〇〇〇万円を超える。今日まで当面の財政危機を自力で乗り切り、円滑な市政の運営に努力してきたが、現在の客観情勢からみて財政再建団体に転落することは避けられない実情にある。」この特殊財産特別会計等三億余円の粉飾決算(県に報告洩れ)問題は、マスコミに大きく取り上げられ、下松市民に大きなショックを与えた。
 かくて、任期満了による市長選挙を五月に控え、四選を目指して立候補を表明していた山中市長は、三月その責任をとって、立候補の断念を発表した。山中市長は三期一二年間財政難の克服を目指しながら、「もっと健康に、もっと安全に、もっと便利に、もっと快適に」を市政の方針として生活環境の整備に努力し、市の行政水準を十万都市並み以上に引き上げるという多大な功績を残して、四月市長の職を辞した。