温見ダム事業の見通しがたった五二年、市は御屋敷山浄水場工事(沈澱・濾過・配水池完備、浄水能力一日二万立方メートル、事業費一億五二〇〇万円)に着工、五七年二月完成し、温見ダム受水による配水を開始して、待望の本格的水道事業の運営に入った。
しかし、給水人口は一万五三四六人、配水量一日一万立方メートル、料金収入年三〇〇〇万円に過ぎなかった。一方資本費(温見ダム事業水道負担費、浄水場建設費、水道管布設費等)は七億円を超え、その償還が年五三五七万余円に達して、水道事業は収支の償わない赤字事業となった。このため三〇パーセントアップの料金改定を行ったが多くを望めず、事業の安定経営のため、工場売水を計画したが、各企業の協力が得られず売水交渉は難航した。さらに温見ダム事業農民負担金(一億四七〇〇万円)を、市水道事業が負担することとなり、水道事業は見通しのたたない深刻な財政危機に陥った。
そこで市は、五九年一月県に全面的な協力援助を要請し、政府資金一億二〇〇〇万円の融資と、山口県信用農業協同組合連合会の長期資金融資を得ることができた。また企業売水についても東洋鋼鈑に浄水、月二五万立方メートル(一立方メートル五円五〇銭)、日本石油精製に原水月三〇万立方メートル(一立方メートル四円)の売水契約を結ぶことができた。
この結果、水道事業は一息つくことができたが、まだ借入金の償還には不十分な状況にあった。そこで財政計画を樹立するとともに、翌年十二月から放任給水を改めて計量制とし、基本料金(一〇立方メートル、一五〇円)、超過料金(一立方メートル増につき一五円)を定め、一般水道料金の増収を図った。それによって六一年度料金収入は、九二五〇万円(工水五七六〇万円、一般三四九〇万円)と飛躍的に増加した。
しかし、借入金の元利償還が八六四三万円と増加し、人件費、配水管敷設費等、事業経営費も上昇し、財政計画の遂行は困難となり、赤字額の増加を招くに至った。そこで六二年十月工業用水の値上げ(東洋鋼鈑五円五〇銭-七円三〇銭、日本石油四円-五円三〇銭)を行ったが、一時凌ぎにしか過ぎなかった。
そこに日本ガス化学から工業用水購入の申し入れがあり、水源地建設費として七一一〇万円の寄付があった。水道会計にとって願ってもないことであるため、開作(山陽本線南側)に伏流水を取水する施設を新設し、翌六三年から給水することとして工事を進めた。しかし工場建設地が徳山市櫛ケ浜沖埋立地から徳山西部に移るなど、諸般の都合で給水ができなくなった。そのため完成した施設は、遊休施設となった。
六四年になると花岡生野屋地域に住宅団地造成が始まり、また市民の水道給水強化の要望が強まり、市は配水区域内の水道管敷設を強化するとともに、花岡地区を配水区域内に加え、給水を開始した。
その結果、給水人口は二万六八三一人、料金収入も一億六一五三万円と増加し、水道部職員も五九人に増え、事業も複雑化した。そこで、これまで公営企業法の一部適用の事業体であった水道部を、全部適用の水道局とし、専任の管理者を置いて事業の充実を図った。