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人口の推移

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 下松市の人口は、表34(世帯数と人口の推移)が示すように、市制を施行した三九年から五年間は、毎年一〇〇〇人以上の増加を示した。これは下松市の産業が軍需工業を中心に急速な進展をしたことを示すものである。
表34 世帯数と人口の推移
(下松市)
年次別世帯数
   (世帯)
人  口摘  要
男(人)女(人)総数(人)
1940年6,83717,84915,36333,212国調
4410,30720,71717,45038,167人口調査
457,43416,43017,61534,045終戦45年8月15日人口調査
478,69419,38019,13538,515国調
508,85419,99319,93039,923
559,65421,42121,97643,397米川村合併54年11月1日
6010,46922,17422,53744,711
6512,17023,69123,71047,401
7013,69524,58425,04349,627
7516,13627,80125,02455,825
8016,93126,82127,98254,803
8517,36226,23228,21354,445

(米川村)
1940年4491,0439922,035国調
444358879741,866人口調査
455241,1891,2842,473
474751,1501,1452,295国調
504611,1481,1572,305下松市合併54年11月1日

 しかし終戦の四五年には反対に四〇〇〇人以上が減少した。空襲による工場施設の被害、敗戦による軍需工場の解除、戦後の生産資材の絶対的不足に基づく生産低下などから、従業員数が減少したことによるものである。翌年には、復員軍人、外地引揚者、日立製作所の生産再開などで再び増加に転じ、四七年の国勢調査では、戦争末期人口に回復した。その後は市内工業生産の順調な回復、朝鮮動乱の特需景気などによって年平均五〇〇人程度の増加を示し、五四年十一月米川村(人口二三〇五)の編入合併で、翌年の国勢調査では人口四万三三九七人となった。
 以後も産業の発展とともに、人口は順調に増加を続け、七〇年には四万九六二七人と五万都市を実現した。さらに、恋ケ浜臨海工業用地(東海岸通り臨海工業用地)に、日本石油の進出、大増設が確約されたので、市は七二年五月、下松市総合基本構想を策定して、八〇年人口六万五〇〇〇人のより働きよい、より住みよい、より楽しみの多い都市の建設を目指した。
 しかし、石油ショックを契機に基礎素材型産業は伸び悩みとなり、その比重が高かった下松市の工業は、構造不況を迎えることとなり、表35のような二次産業の雇用は漸減することとなった。半面三次産業は活発化し、雇用は増加したが、二次産業の不振を補うことができず、人口は七五年の五万五八二五人をピークに漸減傾向をみせるようになり、八五年には、五万四四四五人と過去一〇年間に一四〇〇人の減少となった。
表35 産業別就業者数
総務庁統計局国勢調査(単位:人、%)
年次総数第一次産業第二次産業
構成比農業林業水産業構成比鉱業建設業製造業
1965年23,1013,76716.33,6111114510,93747.3341,9158,988
7025,3272,88911.42,7721110612,38448.9232,06710,294
7526,7101,8757.01,7621210112,84348.1342,51210,297
8025,3141,4835.91,3651710111,23244.4162,8998,317
8525,3151,5766.21,461910610,19540.382,6307,557

年次第三次産業
構成比電気
ガス
水道
運輸通信卸小売業金融保険不動産業サービス業公務
1965年8,38536.41991,4463,2503852,572533
7010,02439.61891,6503,994405433,024719
7511,91044.62471,7874,669435693,948755
8012,57949.72901,5975,064471524,334771
8513,52453.42731,5205,214478675,219753

 これに対し市は、新たに総合計画を策定し、産業構造の大幅な転換を行って、新しい産業の振興と誘致により雇用を増加して、二〇〇〇年を目標に、人口六万人の美しい自然環境を生かした、住みよい、魅力ある都市づくりに邁進することとした。
 地区別の人口状態は、表36のように中心部の下松地区は、全国の都市傾向であるドーナツ現象により、人口の伸び悩みをみせ、この対策として旗岡・昭和団地などの造成が行われたが八〇年以降漸減している。末武地区は漸増を続けてきたが、最近伸び悩みを見せ始めている。花岡・久保地区は、生野屋住宅団地の進捗、東陽大住宅団地の完成等によって、人口は急増を続けている。これは、下松市の住宅地としてのみでなく、隣接徳山市のべッドタウンとしての役割も無視できない。笠戸島・米川地区の人口が激減しているのは、前者は笠戸船渠の不振による雇用調整によるものであり、後者は農村の過疎化に加え、末武川ダムの建設による集団移転のためである。
表36 地区別人口 (国勢調査報告)(単位:人)
地 区年次世帯数人 口
総 数
下 松605,40922,16610,90911,257
655,97722,47911,22611,253
706,46922,70611,21411,492
757,35124,64612,22012,426
807,54923,20111,27311,928
857,41522,13010,56411,566
末 武601,7517,6273,8363,791
652,3138,9404,4854,455
702,6089,5334,7634,770
753,00610,2425,1105,132
803,29910,5005,1965,304
853,30010,2245,0065,218
花 岡601,1655,2172,4922,725
651,5826,4313,1623,269
702,1337,9863,9284,058
752,96810,5915,2315,360
803,29911,3235,5025,821
853,57011,8135,6996,114
久 保608093,8421,9231,919
659504,0412,0092,032
701,1984,5972,2582,339
751,5085,5582,7012,857
801,6385,9322,9103,022
851,9816,8843,3023,582
笠戸島609654,0613,3021,921
659853,9322,0091,883
709473,4641,7821,682
759713,6001,9951,645
808822,8511,4431,408
857842,4291,1811,248
米 川603901,798874924
653631,578760818
703401,341639702
753321,148544604
80327996497499
85312965480485

 人口の構成状況は、五〇年の五歳別・男女別人口構成(図4)によると、調和のとれたピラミッド型の構成を示している。二〇歳から三五歳の女性が多いのは、戦争による男性の戦死者が多かったことと、戦後の食糧不足などによる病死者(結核等)が若い男性に多かったことを示している。その後日本社会は、食糧事情の好転と産業経済の発展、医療の向上などから、平均寿命は毎年伸び、また西欧諸国のように少出産型となり、人口構成は釣鐘型となって急速な高齢化社会を迎えることとなった。

図5 1985年5歳別男女別人口構成