戦後の混迷と食糧難のため、戦災者、引き揚げ者、軍需産業離職者、復員者等が食を求め、縁故を頼って農村に流入した。この対策として、政府は食糧の増産と失業者救済という、一石二鳥をねらった緊急開拓事業を全国的に開始した。
下松市では政府委託事業三カ所、市営国庫補助事業一カ所、計四カ所の開拓事業を四五年度から三カ年計画で開始した。概要は表1のとおりで、一八九町二反三畝一九歩の市有林を開墾適地として提供し、六二戸の希望者を入植させた。入植した人々は、希望をもって困難な開墾作業に従事し、順調なスタートとなった。そこで入植者を自作農とするため、政府の要請に応え、一九四八年一月、一六万円余で国に譲渡した。
開拓地区名 | 提供市有林面積 | 入植戸数 | 開 墾 面 積 | 摘要 |
開 田 | 開 畑 | 計 |
| 町 反 畝 歩 | 戸 | 町 反 畝 | 町 反 畝 | 町 反 畝 | |
大島(大島半島東部) | 129.6.4.26 | 35 | - | 50 | 50 | 政府委託 |
石観音(生野屋) | 21.2.9.23 | 13 | 4.5.7 | 27.5.3 | 32.1.0 | 政府委託生野屋地区 |
中ノフケ(来巻) | 32.6.8.00 | 7 | | | | |
船岩(切山) | 5.6.1.00 | 7 | 7.0.0 | 6.0.0 | 13.0.0 | 市営補助事業 |
計 | 189.2.3.19 | 62 | 11.5.7 | 83.5.3 | 95.1.0 | |
下松市の緊急開拓事業は順調に進んでいるかのようにみえたが、五〇年ごろから食糧事情も漸次好転し、工業も進展を始めると、山地開拓の困苦に疲れ、つぎつぎに離植者が現われた。大島地区(現在徳山市)を除く開拓地入植者は五三年市議会に開拓地放棄の請願を行い離植した。大島地区は、その後一部の者が蜜柑栽培に成功したが、生野屋地区などの開拓地は国有地となり、山林として他に売却された。
戦後の農政は米麦を農家に供出させること、自作農特別措置法による農地改革の推進業務が主となり、将来計画がたてられていなかった。これを憂えた石井市長は、一九四七年八月総合立市計画を立案して、工業立市とともに農業の再建を重点行政とした。この計画は、米・麦偏重の農業から、酪農、果樹、農畜産加工などを加えた、将来を展望した農業の多角経営化を図るものであった。また、将来下松人口を一〇万人と想定し、これに対応する需給計画のもとに、農業生産の地域化(表2)を図った。この計画実現のため、県営指導農場を久保(久保隔離病舎を転用、県に無償提供)に設置して、営農指導の基地とするとともに、営農の模範展示場として、下松市農業の近代化を推進することとした。この農業、工業両立の市政構想も農家は厳しい統制と米麦の供出割当て、農地改革という目前のできごとに追われ、将来に対処することができなかった。また、農地改革はますます農業を零細化し、工業の復興に伴って農業は副業化し、米麦主体の安易な方向に進み、近代化構想はしだいに遠のき、五〇年には県、市の方針転換で指導農場は廃止となり、営農指導は農業改良普及所に統合された。
大種別 | 品 種 別 | 産地地区名 |
畜 産 | 大家畜 (酪農、肥牛、養豚) | 久保、生野屋、末武 |
小家畜 (養鶏、養兎) | 花岡、末武 |
野 菜 | | 花岡、生野屋 |
果 樹 | 蜜柑 | 笠戸島、大島開拓地 |
栗 | 久保北部 |
柿 | 花岡、久保 |
桃 | 末武 |
食品加工 | バター、チーズ | 久保、末武協同組合 |
味噌、醤油 | 各協同組合 |
漬物、佃煮 | 花岡、久保協同組合 |