戦後下松の製塩業は、すでに往年の隆盛はみられなかったが、下松土地所有の平田浜(西潮上浜)、鶴ケ浜、下松中浜、新崎浜の三一・四ヘクタールの入浜式塩田で採塩され、年間生産量は一〇三三トン、従業員一四〇名を数えていた。この塩は下松汐見町の専売公社下松製塩工場で精製され、全国に販売された。
戦中・戦後、塩も食糧同様に不足し、市はこれに対処するため、新崎浜の一部(一ヘクタール)を借地して自給製塩を行い、市民に塩の特別配給を行った。この自給製塩事業は、公営としての経営が困難なため四八年廃止された。
翌年、下松塩業協同組合が設立され、塩田の経営に当たった。その後、流下式製塩の普及によって生産は倍増し、専売公社は大量の在庫を抱えることとなった。そこで専売公社は、五九年「塩需給対策要綱」のもとに塩業整備を開始し、製塩業として基盤の弱いものに廃止勧告を行った。下松市の塩田は、整理対象となり、下松発展の基礎となった製塩業も終わりを告げるに至った。専売公社下松製塩工場も葉タバコの原料工場となったが六九年には閉鎖され、防府市の新工場に統合された。