日立製作所笠戸工場は、従業員を六七〇〇人から二〇〇〇人に経営合理化し、総力を挙げて生産施設の復旧に努力を傾注した。終戦直後の十月には鉄道省から大量の車両修理と新車両の発注があり、施設の復旧と生産を同時に行い、翌年には早くもD52機関車や客車を完成し、しだいに生産を軌道にのせ、下松市経済復興の原動力となった。
東洋鋼鈑は戦災は受けなかったが、ブリキ生産用原材料の入手見通しがなく、混迷した社会では事態の推移を見守るほかないとして、四五年九月全従業員を解雇し、翌十月工場再開要員四四八名の呼出雇用を行い、旧呉海軍工廠から鉄鈑の端切の払下げを受け、フライパン、くわ等の生活用品の生産を開始した。翌四六年三月には旧軍用鋼鈑を入手してブリキの生産を開始するほか、アルミ板の受託製造や鋳鉄品、漁船用発動機の製造を行う等、次第に生産を拡大していった。
笠戸船渠笠戸造船所は戦災被害は少なかったが、資材難のため旧軍艦艇の解体から操業を始めた。その後修理船の入渠が続き、四七年には、小型貨物船の新造を行うなど、市内基幹工場では最も順調な生産活動を展開した。
日本石油下松製油所は設備の大半を破壊され、再起不能の状況となったため、従業員四九九人を二一五人に削減し、全員一丸となって製油施設の復旧作業を進めながら、他の生産事業を起こし、製油所の再開に備えた。四六年七月には設備の一部原油蒸溜装置の運転を開始して、残油や松根油を集めて処理し、石油製品の生産、出荷を開始するとともに、ろう製品、染色剤、製薬、製塩等の副業にも力を入れ、復旧と生産はようやく軌道に乗った。しかし、突如九月GHQから太平洋岸製油所操業停止指令が発令され、製油所を閉鎖しなければならなくなった。このため豊井社宅の一部を転用して製薬工場を移転し、副業の操業に力を入れ、製油所の再開を待つこととなった。
以上のように日本石油下松製油所を除く他の三社の工業復興が軌道に乗ったので、市内中小企業も再開、復興が順調に進み、四七年度末には表13のように五人以上の企業数四三社、従業員数六〇〇〇人を超え、生産額は一七億円近くに達した。
表13 業種別工場状況(5人以上の工場)1947年度 |
分 類 | 工場数 | 従業員数 | 生産額 |
人 | 千円 | ||
金属工業 | 1 | 1,305 | 420,592 |
機械工業 | 16 | 3,107 | 1,178,824 |
化学工業 | 1 | 623 | 3,688 |
ガス及電気工業 | 1 | 15 | 13,908 |
窯業及土石工業 | 2 | 65 | 15,240 |
印刷及製本業 | 1 | 17 | 3,496 |
製材木製品工業 | 15 | 476 | 40,348 |
食糧品工業 | 4 | 221 | 12,656 |
その他の工業 | 2 | 372 | 7,460 |
合 計 | 43 | 6,205 | 1,696,212 |