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好不況に揺れた工業生産

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 四八年十二月ドッジ声明に基づくインフレ抑制策として、経済引締策と集中生産方式等一連のデフレ策がとられ、下松市の工業は四大工場を初めとして、その関連中小商工業も経営上、苦境の時期を迎え、経営合理化等の対策がとられた。特に日立製作所笠戸工場は国鉄の車両生産が主であったため、五〇年度国鉄予算の削減で新規の発注がなくなり、八五三人の人員整理という大経営合理化を行うとともに、外国車両の受注獲得に鋭意努力して、生産を続行することになった。こうして戦後順調に発展していた下松市の経済は一時的に停滞することとなった。
 この経済停滞期が始まった四九年五月に工場閉鎖を指令されていた日本石油下松製油所に、石油輸入基地の指定があり、続いて七月GHQから太平洋岸製油所再開準備指令が発令され、九月製油所操業再開が許可された。このことは日本石油下松製油所関係者のみならず、下松市にとっても一大朗報であった。復旧作業と並行して、装置の新設拡充を進め、五〇年二月製油作業を再開した。五一年十月、さらに日本石油とカルテックスが提携し、日本石油精製下松製油所として近代的設備による生産が始められ、五二年度には原油処理量四〇万キロリットルに達した。
 五〇年六月、朝鮮戦争が起き、その特需によって日本経済は急速に成長し、下松市の工業も四大工場を中心に、表14のように工業生産高が伸張し、設備の近代化投資も開始された。しかし、このように順調に展開していた工業も、間もなく特需がなくなり、景気に陰りが現れた。特に造船界の不況は厳しく、そのあおりで笠戸船渠は五四年七月工場閉鎖の止むなきに至った。市、工場関係者で工場再開に向かって努力が続けられている中、日本の景気はしだいに回復し、造船業界も活況となり、五六年、笠戸船渠は操業を再開した。その後、宇部興産の系列造船所となり、工場の近代化が図られ、中型造船所として急速に発展することとなった。
表14 製造工業生産力一覧表(1951年度)
分 類工場数従業員数生産額
千円
機械器具124,5102,689,384
金 属51,6011,617,282
化 学77361,347,561
窯 業3251,940
食料品2321052,340
その他51428310,032
合 計1017,5106,018,539