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[鉄道]

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 戦後の陸上交通は、道路の末整備と自動車・ガソリン不足によって、鉄道が物資・旅客輸送の主軸であった。しかし、戦争中からの酷使のため、鉄路・車両ともに疲労し、政府がその対策を急いでいるとき、四七年七月東京駅発下関行の復員列車が、恋ケ浜魚返踏切附近で線路不整備のため脱線転覆し、数十名の死傷者を出すという大惨事が発生した。この事故は、国鉄の戦後整備を一層早めることとなった。
 戦後の下松、花岡、久保三駅の乗降客数、貨物取扱数量は表20・表21のとおりで、五〇年朝鮮戦争の特需景気を背景とした市内工業の発展で、旅客数、貨物取扱量ともに急増した。その後も旅客は下松の発展とともに、順調に増加したが、貨物取扱数量は特需景気終了とともに一時停滞した。六〇年代、日本経済は高度成長期を迎え、市内産業も着実に発展し、鉄道の全盛期となり、市内三駅の旅客(乗車者)数も年間二五〇万人台、貨物取扱量も年間三〇万トンを超えた。
表20 鉄道旅客乗降数
(単位:人)
年 度乗降車別下松駅花岡駅久保駅
1947年乗車数989,641195,189159,4671,344,297
降車数1,104,738196,464156,4911,457,693
1951年乗車数1,633,521253,864151,9952,039,380
降車数1,625,773259,906148,8432,034,522
1957年乗車数1,791,384262,664143,4442,197,492
降車数1,762,814262,505148,7802,174,099

表21 年間取扱貨物数量(1946~51年)
(単位:トン)
駅 名年別1946194719481949195019571957
下松駅発送貨物82,80083,65082,20084,520128,750135,400118,043
到着貨物82,06083,55083,05083,700125,600133,85037,010
久保駅発送貨物1,6181,1332,2892,7862,1103,1611,759
到着貨物2304935421,1398151,179282
花岡駅発送貨物5,2276,8655,8606,9638,03613,17010,980
到着貨物1,8372,2671,4471,8351,3501,7781,364

 一方、道路整備が進み、自動車が普及すると近距離貨物は自動車輸送に移行していった。このため、六一年十月、下松駅を貨物集約駅とし、貨物の少ない花岡、久保両駅の貨物取扱いを廃止する経営の合理化が行われた。六〇年代後半になると、自動車時代が始まり、下松市の旅客数は表22のようにしだいに減少した。しかし貨物の出荷量はブリキ、石油製品の好況に支えられ、七三年の石油ショックまで年間三〇万トン以上の貨物取扱量を維持したが(表23)、その後、急速にトラック輸送と海上輸送に移行した。
表22 鉄道旅客輸送(乗車)人員
(単位:人)
年 次乗 車 人 員
下松駅花岡駅久保駅
1960年1,958,088283,951147,9172,389,956
622,138,101262,179115,0142,515,294
651,944,263302,073102,8112,349,147
671,845,466266,04689,9852,201,497
701,693,686275,94393,9222,063,551
721,530,092251,21192,8541,874,157
751,544,483266,774114,1051,925,362
771,447,119256,787112,2211,816,127
801,321,929222,887110,3231,655,139
831,251,555204,12595,2601,550,940
841,240,427191,528105,9361,537,891

表23 鉄道貨物輸送状況(下松駅)
(単位:トン)
年次総数農産品林産品鉱産品工業品その他
鉄鋼機械車両石油その他
57169,4375,56618,5123,97541,33884,4691,52714,053
60309,74310,4793,53910,52477,50968,15178,43943,79817,309
62341,0378,0805,0155,192101,57170,97870,23641,51237,475
65341,77015,4313,00712,639108,56067,37177,51448,8258,151
67352,6248,3323,44711,934112,09560,28195,35542,155212
70341,7707,0601,8224,819129,48237,85882,41873,072239
72348,5447,4301,5304,852139,56233,77196,40562,5532,441
75270,9933,024768893144,08920,84948,40152,969
78199,8022,116156877101,18918,33553,49919,4504,179
80184,2722,2881455881,43313,98150,96134,0011,036
82167,2121,8421163984,91113,90830,3482,73432,824
84145,8213,2191,66090,3005,75716,0003,82325,062
発送133,2401,29689,4733,43213,3451,12624,568
到着12,5811,9231,6602272,3252,6552,697494

 六四年下松駅北部の区画整理事業の進捗に伴い、鉄道が下松市街地を二分することとなり、また下松駅の乗降は南側一方のため、駅利用に不便との市民の声が高まり、市は北側駅の設置と駅南北を結ぶ橋梁の設置を国鉄に強く要望した。その結果、国鉄では小都市としては稀な橋上駅設置を決め、同年十一月橋梁部分(工事費二七二〇万円)は市道として市負担、橋上本駅部分(六八八〇万円)は国鉄負担、総事業費九六〇〇万円で建設することとなり、翌年十二月下松橋上駅が完成し、下松駅の利用は至便となった。
 また、六四年十月広島~小郡間の電化が完成して、蒸気機関車はしだいに姿を消し、岩徳線も七一年ディーゼル機関車の運行となり、鉄道は完全無煙化した。七五年三月、新幹線岡山~博多間の営業が開始され、東京~徳山間が六時間に短縮された。この幹線が市内北部を八キロメートルにわたって通過しているため、騒音、振動、電波障害、日照が公害問題となったが、市と国鉄の協議により解決を見た。
 この時期、道路整備も進み、自動車は一世帯一台以上となり、定期乗車、近距離旅客は減少の一途をたどった。国鉄は合理化策として、普通列車の本数を削減したため、利便が悪くなり、ますます利用者が減少した。また八二年には花岡を業務委託駅、久保を無人駅とし、徳山駅の被管理駅とした。
 このように国鉄は経営合理化を重ねたが、赤字が累積し、ついに国は国有鉄道を、八八年四月から、分割して民営とし、市内の鉄道は西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)となった。民営移行後、山陽本線、岩徳線とも列車が増発され、また岩徳線には生野屋駅が新設されるなど、利用者の便が図られたため、旅客はしだいに増加の傾向を示している。