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道路の整備

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 一九四七年、総合都市計画を策定し、市道八四路線、延長九万二〇九二メートルを認定したが、ほとんど末整備で、海岸通り(国道一八八)荒神~恋ケ浜間五七〇〇メートルの拡幅をようやく終えたという状況で、産業・経済の復興に伴い、道路の整備が急務となった。このため、国に対して一級国道二号の改良着工を強く要望し、県に対しては二級国道一八八号(当初は県管理)の光市までの改良、延長と道路舗装、県道下松・田布施線のうち国道一八八号から中戸原間の改良、そのうち特に国鉄山陽本線との陸橋による立体交差の早期実現を要請した。
 一方、市道は失業対策事業によって改良、整備を行うほか、都市計画街路中央線(所田・鳥越線)の改良を開始した。五三年五月妙見大橋が完成して県道下松・田布施線の一部改良工事が完了し、自動車は遮断時間が長く狭隘で混雑する栄町踏切を通る必要がなくなり、南北の交通が至便となった。
 当時下松駅を中心に下松~花岡~米川~八代、下松~久保、下松~徳山、下松~光間に防長バスが運行していたが、回数が少なく不便なため、市営バスの運行が市民、市議会に高まり、市はついにバス運行計画を市議会の議決を得て、広島陸運局に「一般乗合旅客自動車運送事業の免許」を申請するに至った。その計画によると、バス六台を運行して、生野屋~恋ケ浜間一八往復、久保駅~恋ケ浜間一七往復、荒神~恋ケ浜間一七往復を行うというものであった。
 しかし、免許申請手続きが手間取っている間に、免許をもっている防長バスが市のバス運行計画のほとんどを肩代わりして、五四年二月、市とバス運行増便協定を結んだ。この協定により、市内バス増強計画の目的は達せられたので、市営バス運行計画は中止となった。
 日本経済が復興し、高度成長期に向かった五九年三月国道一八八号下松~光間の付替工事が完了して、光・徳山両市との交通が便利となり、また国道二号線の改良工事も開始された。当時の道路状況、自動車台数は表24、表25のとおりで、道路の改良一二パーセント、舗装率六パーセントと道路整備は緒についたばかりで、自動車もオート三輪貨物が主で、ようやく人口一〇〇人につき一台を超える状況であった。
表24 道路状況(1959年)
種 別路線数総延長改良ずみ未改良舗装率
mmm%
国 道1級 (2号)17,9809007,0807.5
2級 (188号)16,6806,68093.9
県  道832,5209,70222,8183.9
市  道135138,0835,250132,8331.8
145185,26322,532162,7316.1

表25 自動車台数調
(単位:台)
車 種乗 用 車貨物自動車バ ス特 種
自動車
合 計
年次普通小型普通小型四輪三輪
1951年度9(三輪) 514783102183197
1958年度15516680712463971323499

 その後、道路整備は急ピッチで進められ、六二年四月東西交通の幹線である国道二号線が市内全線にわたって新設改良され市道では城山通りを新設して花岡~下松間の利便を図った。翌年七月、周南地区が工業整備特別地域の指定を受け、十月には山口県で国民体育大会が開催され、国、県、市道の改良、舗装は加速されることとなった。