五二年、日本電信電話公社法が施行され、電気通信事業は公共企業体として業務を開始した。これに伴い下松電報電話局も日本電信電話公社下松電報電話局として新発足した。このころから、電話の需要が高まり、電話加入の申込みは激増したが、市内には年間一〇〇台程度の新設枠しかなく、利用度の高い事務所・商店等に優先的に設置され、一般家庭の設置は申込みしてから数年を要する状況であった。このため市では、各地区に町内電話を設置して市民の便宜を図った。
六〇年代になると、日本の経済は高度成長期を迎え、ますます電話需要は高まり、政府も一世帯一台、全国即時通話の方針を打ち出した。下松電報電話局も自動交換方式に改め、市民の電話設置の要望に応えるため、六一年花岡・久保郵便局に委託していた電報・電話業務を下松電報電話局に統合し、翌年大手町に新局舎を完成し、六三年六月自動化が完成して、市内(米川・笠戸島は七二年)はダイヤル式電話となった。このようにして、電話は表32のように急速に普及して、産業・経済・市民生活に欠かせぬものとなった。
表32 電話の状況 |
(単位:台) |
年 次 | 一 般 加 入 電 話 | 有線放送連続電話 | 構内交換電話 | 公衆電話 | |||
加入数 | 単 独 | 共 同 | 普及率 (100人当り) | ||||
1958年 | 1,217 | - | - | 2.7 | - | - | - |
60 | 1,577 | 1,270 | 307 | 3.5 | - | 69 | 47 |
63 | 2,116 | 1,630 | 486 | 5.4 | - | 82 | 67 |
65 | 2,944 | 2,421 | 523 | 6.2 | - | 108 | 92 |
67 | 3,679 | 3,110 | 569 | 7.3 | 15 | 108 | 98 |
70 | 4,936 | 4,322 | 614 | 9.6 | 15 | 132 | 190 |
73 | 9,918 | 9,169 | 749 | 18.0 | 15 | 150 | 244 |
75 | 14,501 | 13,791 | 710 | 26.0 | 15 | 160 | 265 |
77 | 16,468 | 15,855 | 613 | 29.0 | - | 165 | 307 |
80 | 17,763 | 17,356 | 407 | 32.1 | - | 198 | 353 |
84 | 19,167 | 18,961 | 206 | 34.6 | - | 201 | 383 |
七五年代以後、情報化の時代となり、電気通信の重要度はますます高まり、データ通信・光ファイバー通信等発達を続けているが、日本電信電話公社は、八五年四月日本電信電話株式会社(NTT)に移行して、民営化され、同時に日本電信電話株式会社下松電報電話屋局が発足した。
一方、農事有線放送電話事業は農村文化と農業の生産性向上を目指す新農村建設事業の一環として、下松市農業協同組合で取上げられた。
六六年賛同者の多かった市農協久保支所で事業を開始した。その後花岡地区・米川地区と有線放送電話網を拡大し、加入者は八三二戸に及んだ。
当時は電話が普及していなかったから、農時放送と電話は農家に対して非常に便益を与えるものであった。しかし、放送と電話の併用は不便な点もあり、七七年には、電話の普及も進み、下松市農業協同組合では事業の目的を達成したので、有線放送電話事業を廃止した。