工業文化都市建設を目指す石井市長は、一九五三年、下松都市計画市街地綜合計画を決定、同時に下松都市計画下松駅裏土地区画整理事業の推進を図ることとした。しかし、当時は農民の農地に対する執着が強く、翌年七月農地所有者は農民大会を開催して、下松駅裏地帯の区画整理反対陳情書(署名者農地所有者二六八名)を市議会に提出し、反対運動を展開した。反対理由は農地の三割が減少することの痛手、食糧生産の増強が求められているときに宅地化することへの反対、農業生活が不安定となるなどであった。市議会でも時期尚早の意見が強くなり、財政的にも困難な時期を迎えたので、区画整理事業は機の熟すまで延期することとした。
五七年都市計画税の新設があり、都市計画事業七カ年計画で最重点施策として区画整理事業を取り上げたが、なおこの事業について地区の理解を得るために時間を要し、石井市長在任中に事業の前進を見ることができなかった。
五九年河口市長時代になって、工業を中心とする産業の活発化に伴い、市民生活は安定して、住みよい都市環境を求める声が強くなり、区画整理事業の推進機運が高まった。また市長を始め関係者は地権者に対して土地区画整理の必要性と事業への協力を求める説得を重ねた。事業方法も地権者の組合施行を市長施行とし、減歩も当初の三割程度を二割程度に引き下げ、保留地を少なくして公共負担を増加するなどの措置をとった結果、ようやく大半の賛同を得ることができた。そこで市は施行諸準備を進め、六〇年三月国の認可を得て区画整理事業施行区域(五三・三七ヘクタール)を決定した。区域が広大なため、工区(図5)を第一工区(東柳)、第二工区(下松駅裏)、第三工区(寺迫・半上)に分けて逐次施工することとし、翌年六月国から区画整理事業設計・事業認可を得て、第一工区区画整理事業に着手した。さらに翌年第二工区は都市改造事業として区画整理事業に着手し、一工区は六六年八月、二工区は六八年五月完成した。その間下松橋上駅が六五年十二月完成して、下松駅裏は駅北となり、駅北の水田地帯は景観を一新し、工業文化都市建設を目指す下松市の中心市街地となった。
図5 区画整理区域
第三工区は地権者の完全な合意を得るまで少し遅らせ、快適な住環境整備のため、上・下水道の整備、公園・緑地のほか、自転車・歩行車道の設置を行うなどの配慮をし、七三年事業に着手、七八年完成した。これによって、五三年以来下松市の懸案であった下松都市計画下松駅北土地区画整理事業は終了した(表34)。
表34 下松都市計画下松駅北土地区画整理事業概要 |
区分 | 第1工区 | 第二工区 | 第三工区 | 計 |
m2 | m2 | m2 | m2 | |
面積 | 135,109.22 | 245,629.03 | 152,940 | 533,678.25 |
昭和年度 | 昭和年度 | 昭和年度 | 昭和年度 | |
工期 | 36~41 | 37~42 | 49~52 | 36~52 |
% | % | % | ||
平均減歩率 | 16.70 | 18.62 | 17.23 | |
m | m | m | m | |
道路総延長 | 4,157.66 | 6,147.79 | 3,272.05 | 13,577.95 |
ケ所 | ケ所 | ケ所 | ケ所 | |
公園 | 1 | 3 | 2 | 6 |
m2 | m2 | m2 | m2 | |
公共用地面積 | 37,000.03 | 56,878.81 | 36,090.76 | 129,969.06 |
千円 | 千円 | 千円 | 千円 | |
事業費 | 54,332 | 307,311 | 546,572 | 908,215 |