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医療の充実

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 戦後市内の医療は、二〇余名の開業医と十数名の歯科医によって支えられ、病院は皆無であった。一九四七年五月日立病院(病床数普通五五)が設立され、日立従業員、家族以外に一般の診療も開始した。同年、日本医師会が設立され、これを受けて下松市医師会も改組し、社団法人下松市医師会(市在住医師二七名)として発足した。
 四九年の統計によると、市内の医療従事者は医師二七名、歯科医一八名、薬剤師一一名、産婆一六名、看護婦二九名の計一〇一名で、産婆が比較的に多かった。当時は伝染病が多発していたので伝染病舎が久保・下松の二カ所にあったが、久保には開業医がいなかったため、市立の久保診療所が設置されていた。つづいて五〇年には東洋綱鈑病院(普通病床三八)が設置されたが、市民は一般病院の設置による医療施設の整備を熱望した。
 そこで、下松市は五七年、一部事務組合徳山地方伝染病組合(治療を徳山中央病院に委託)に加入して、市営伝染病舎を廃止することとした。この伝染病舎(土地八二〇坪、建物一六五坪)に、一般病院の誘致を行ったところ、医療法人社団同仁会から病院設立の申入れがあり、市は施設を二〇七万余円で譲渡した。ただちに改装工事が行われ、翌年七月、医療法人社団同仁会下松記念病院(普通病床二八)として、下松市に初めての一般総合病院が発足した。また六〇年には下松病院(内科・外科・病床二〇)が開設され、その後日本経済の高度成長と下松市の発展とともに、市内の医療施設は表7のようにしだいに整備された。
表7 医療施設の状況
年度病 院一般診療所歯科
診療所
医師数歯科
医師数
薬剤師数
会 社医療法人・個人施 設 数病床数
施設数病床数施設数病床数有床無床
1961年218321062915149513471932
653193215532151715492130
703193216338171212915502036
753193216337172015614492236
802163222134161818616512252
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 六六年自動車が急増し始め、事故も多発するようになり、下松市消防本部では急病患者対策とあわせて救急業務を開始した。また、同年下松市医師会では、日曜・祝祭日等の急患対策として、日曜当直制(内科・外科各一名)を開始した。
 このように医療施設が整備されるなかで、休日・夜間における医療機関の救急患者対策が全国的な問題として取り上げられるようになった。このため山口県では、七七年救急医療対策協議会を設置し、医師会・病院協会・市町村(消防)の協力を得て、県を九地域に分け、八一年三月から「救急医療情報システム」の運用を開始した。これにより救急医療に必要な医療施設の情報を、早く正確に伝達できることとなった。周南地域では新南陽・徳山・下松・光の四市と鹿野・熊毛二町の関係機関(市町・医師会・消防本部・各病院)の各代表をもって、周南地域救急医療対策協議会を組織し、救急医療体制の整備と推進を図っている。