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保健衛生

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 戦後、保健・衛生状況は、生活環境の不備に栄養不足が重なりきわめて悪く、伝染病は表8のように多発し、結核罹病者も毎年三〇〇人程度発生し、五〇人以上の死亡者表8-1を出すという状態であった。
表8 伝染病発生状況
(単位:人)
年 度合 計赤 痢チフスジフテリヤ日本脳炎小児マヒその他
1945年221108156830
47618647
495425101261
51664021563
545228231
561236714681
581481239772
601571351471
627265142
645346142
65191612

表8-1 結核による死亡者数
(単位:人)
1949年50515558606365
79593919181577

 この非衛生環境は、市の地形によるところが大きかったが、何とか打開すべく五一年衛生課を設置して市街地のごみ収集を開始するとともに、衛生思想の普及・啓蒙を開始した。また同年九月市民に良質の飲料水を提供するため、下松市街地に上水道給水事業を開始した。さらに、下松地区の排水をよくするため五三年下水道事業を開始し、排水管の埋設を始めた。同年国民健康保健開始とともに、保健婦四名を置き、市民の保健衛生思想の普及を強化した。
 このようにして五六年市民総参加の下松市環境衛生協議会が誕生し、市と一体となり、保健衛生活動を開始した。しかし、なお伝染病や結核は多発していたが、六〇年代に入ると、経済成長による市民生活の向上と健康に対する市民意識の高まり、生活環境の整備、それに加えて薬剤・医療の急速な発達によって、結核死亡は急速に減り、伝染病も急減し、六五年以降伝染病の発生は年間数名という、戦争直後の時期と比較すると隔世の感を示す状況となった。
 その後も市は健康で快適なまちづくりを市政の基本として進めているが、ガン・脳血管疾患・心臓疾患等の成人病が大きな社会問題として浮上してきた。市はこの対策として八三年日石油槽所跡地に保健センターを開設し、疾病予防、検診、健康相談、健康教室等を通じて、市民の保健意識を高め、一層の健康増進を図っている。