下松市内では笠戸労愛会(笠戸船渠)が四五年十二月結成され、その後つぎつぎに組合が結成された。戦前はまったく組合活動がみられなかった官公庁、学校においても組合が結成され、ほとんど中央組織に加入した。また横の協力組織として、下松地区労働組合協議会が翌年二月発足した。同年の組合結成状況は表17のとおりで、争議は東洋鋼鈑労働組合が、八月労働関係調整法に反対して一日ストを行い、日立笠戸労働組合が十一月社・工員の身分差別撤廃を要求して、日立総連合闘争として三日間の全面罷業を行い成功した。
表17 下松市内労働組合結成状況(1946年末) |
組 合 名 | 結成年月日 | 組合員数 |
笠戸労愛会 | 1945年12月 8日 | 822人 |
東洋鋼鈑労働組合 | 46. 1. 18 | 534 |
日立製作所笠戸工場労働組合 | 46. 2. 15 | 2,704 |
下松郵便局従業員組合 | 46. 3. 1 | 65 |
日本石油従業員組合下松支部 | 46. 4. 6 | 274 |
下松吏員組合 | 46. 5. 15 | 69 |
東洋木材工業労働組合 | 46. 5. 29 | 20 |
山口県教職員組合下松支部 | 46. 7. 1 | 202 |
全国専売職員組合広島支部下松地方支部 | 46. 8. 20 | 41 |
全逓信従業員組合下松支部 | 46. 9. 12 | 95 |
下松塩業労働組合 | 46. 9. 20 | 75 |
山口県勤労署職員組合下松支部 | 46. 12. 18 | 24 |
計12組合 | 4,925 |
当時はインフレと生活難を背景に、全国的に生産管理闘争などの過激な争議が繰り広げられていたが、政府の施策を不満とする官公庁労組も、全官公庁共同闘争委員会を組織し、これに野党や他の労働組合が協調して、賃上げ闘争とともに、倒閣運動を展開した。翌四七年に入ると、吉田首相の「不逞の輩」発言などもあり、情勢は悪化し、一月民間労組も加えた「全闘」が結成され、急進的な全日本産業別労働組合会議の主導のもとに、二六〇万人参加の大ゼネストが二月一日決行されることになった。市内の各労働組合も地区労を中心に、ほとんどの組合が無批判にゼネスト参加を決定した。しかし、この大政治ゼネストは日本の占領政策に違反し、いたずらに混乱を招くとして、マッカーサー指令で、スト突入直前回避された。
二・一スト以後、急進的な組合運動を批判する傾向も現れ、組合の民主化が徐々に図られるようになり、また米国の対日政策も非軍事化から日本経済の自立へと大きく転換し、過激な労働運動は抑制されるようになった。しかし、物価の高騰は続き、生活不安が増大したため、同年六月ごろから各労組はつぎつぎに飢餓突破資金や賃上げ要求を掲げて強い闘争を展開するようになった。
下松では日立(全国車輛産業労働組合日立笠戸支部)が単独で赤字補塡金を要求して、四七年五月二十二日から六月一日までストライキを決行した。組合要求が入れられ、いったん解決したが、同年九月日立労組総連合のもとで再度平均賃金五〇〇〇円を要求して同月二十七日から十一月十二日まで、四七日間に及ぶ長期のストライキを決行した。この争議には連合軍総司令部が期限つきで労使双方に解決を勧告(十一月十日までに生産を再開しなければ資材の割当て中止、新規注文の中止、電力供給の取消、輸出の不許可、勤労加配米の中止等、九項目)した。この勧告は企業の存続に関するものであり、ついに労働組合が譲歩し、ようやく解決を見た。