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東洋鋼鈑・日立のストライキ

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 四七年十月、日本経済の自立を目指し、経済九原則が出され、金融は厳しくなり、四八年に入ると官公労を中核とした賃上げ労働攻勢は激しさを加え、賃上げに対する生産性は伴わず、インフレを増進するのみとなり、企業は経営資金の手当に苦心することとなった。十一月全日本金属労働組合山口支部東洋鋼鈑分会では平均賃金手取り一万一五〇〇円を要求、会社は九〇〇〇円の回答を出して譲らず、十二月組合はストに突入した。しかし激しい闘争が行われていたなかで、一三七〇名の組合員中五〇〇名が第二組合を結成し組合は分裂した。会社はこの組合を承認するとともに、分会との労働協約中のクローズド・ショップに関する協定の破棄を通告した。これに憤激した分会員は、工場の正門を占拠してピケを張り、会社はロックアウトで対抗。分会員は会社幹部を監禁するなど、激烈な争議となり、ついに分会執行部が会社幹部不法監禁により逮捕される事態に発展した。その間山口県地方労働委員会の斡旋が続けられ、翌四九年一月ようやく会社案で解決した。この争議は会社・組合双方に多大な教訓を残し、以後、健全な労使関係が生まれ、会社は発展を続けることとなった。
 このころ経済九原則下の諸政策により、各企業は受注減と資金難のため、経営合理化を求められるようになった。これに対抗して全国的に産業防衛運動が展開され、下松地区労では同年六月産業防衛会議を結成し、市議会に協力(吉田内閣打倒、産業防衛会議への助成金の支出)を求めたが、拒否され、これを不満として市議会のリコール運動を行い、成功し、市議会議員選挙には四名の労組議員を当選させた(第一章、2)。
 翌五〇年に入ると、日立は受注減から組合の反対を押し切り職員の計画帰休を実施した。四月、日立総連合は賃上げ(八五〇〇円を一万二〇〇〇円に引上げ)要求を会社に提出したが、五月会社は賃上げの不可能を組合に回答するとともに、人員整理(五五五五人)を含む大規模な経営合理化案を発表し、組合の協力を求めた。日立笠戸工場の人員縮減は八五三名で、同日から熾烈な人員整理反対闘争が展開された。その間、希望退職者の募集、指名解雇が行われ、ついに暴力事件が発生、八名の逮捕者を出すに至った。希望退職者七九六人、解雇通告者五二人、計八四八名を解雇した。
 その後も青年防衛隊(二四歳以下の男子労組員による組織)を中心に、労組員の家族まで含めた過激な闘争を展開したが、争議が長期化するにつれ、全金属労組方式の過激な闘争にしだいに内部批判が起こり、全金属労組日立笠戸分会は七月全金属労組を脱退し、日立笠戸労働組合として再出発し、全組合員の投票により、圧倒的多数をもって日立笠戸単独妥結を決定、会社の経営合理化案を承認して調印を行った。五月八日以来、六二日間続いた大争議も解決し、労働組合の民主的運営が強化され、以後会社・労組の協調が図られ、発展の一途をたどった。