同年七月、中央では没落した産別会議に代わって、官公労、国鉄、産別民同派総同盟左派などが結集して日本労働組合総評議会(総評)として発足し、わが国労働運動の主流となった。
五三年五月山口県教組が編集した「小・中学生日記」欄外に親ソ反米の政治的偏向記事があるとして、岩国市のP・T・Aから県教育委員会へと問題化した。これを機に、県教組の左右の対立が表面化し、小・中学校長の脱退が始まり、一般教職員の脱退も相次いだ。翌年一月山口県教職員団体連合会が結成され、山口県教組下松支部(二一六名)はその大半が脱退し、下松市教職組(一七四名)を組織し、県教団連に加入した。
五四年、笠戸船渠が造船不況とソ連船修理受注による損失から倒産して工場閉鎖を行い、全日本造船労組中国支部笠戸船渠分会(六八七名)は、予期せざる試練に直面することとなった。一年半後の五六年工場は再開したが、復職者は一部にとどまり、ほとんどが復職するまでに数年を要した。
五八年から六〇年にかけ、いわゆる「安保闘争」が展開された。山口県労評も日米安保阻止県民会議を発足させ、政治闘争に参加した。下松市では東洋鋼鈑労組、下松市職員労働組合などで賃上要求をからませ、ストを含む争議が行われたが、大争議とならず短期間で解決した。以後市内企業の労働組合は、賃上げなどの穏健な経済闘争に終始した。
このほか、全日自労下松分会(市の失業対策事業に就労する二二七名、六〇年現在以降漸次滅少)は、毎年のように政府が定めた就労日数、賃金、夏期、年末手当の増加(単独市費)を要求して、市庁舎前座込みや市の幹部を取り囲む全体交渉を行うなど、過激な闘争を展開した。しかし、六五年以降、漸減した。
七五年全水道山口県本部下松支部(下松市水道局労組四〇名)は、同年のベースアップに対し、自治省の指導方針(国家公務員よりラスパイレス指数の高い自治体は給与の一号下位への格付け)に基づく措置を不服として九月から争議に入り、山口県本部の拠点闘争地となり、過激な闘争を展開した。十二月市がこの措置を撤回し、九〇日を超える争議が妥結した。
このころからわが国の産業経済は第一次石油危機、続く第二次の石油危機をまともに受け、経済成長は鈍化した。このため労働運動もはなばなしい賃上げ闘争時代から、良識ある行動時代に移行し、長期にわたる争議はしだいに影をひそめ、雇用を守る運動が展開されるようになった。下松市でも全企業に経営合理化がしだいに進み、他工場への転勤、出向が多くなり、雇用規模も縮小傾向が現れるようになった。八五年現在の下松市の労働組合設置状況は表18のとおりである。
表18 下松市の労働組合一覧 |
(1985年6月30日現在、山口県労働組合名簿) |
産 業 分 類 | 組 合 名 | 組合員数 ( 人 ) |
建設業 | 建設一般全日自労山口県本部下松支部 下松市自由労組 中国電気工事労組下松分会 山口県建設労組下松支部 全造船機械村上海事分会 | 38 8 21 247 10 |
化学工業 | 大阪酸素労組下松支部 | 18 |
石油製品 | 全石油日本石油労組下松支部 | 339 |
鉄鋼業 | 東洋鋼鈑労組 | 1,398 |
輸送用機械器具 | 日立製作所労組笠戸支部 全造船機械笠戸船渠分会 笠戸船渠労組 | 1,870 48 999 |
卸売・小売業 | 全自販中国地区防長日産モーター支部 高山石油ガス労組 | 137 96 |
金融保険業 | 山口県労働金庫労組下松支部 | 14 |
道路旅客運送業 | メトロ交通従組 | 56 |
道路貨物運送業 | 日立運輸労組笠戸支部 総評全国一般山口地本合田運輸支部 | 107 8 |
通信業 | 全電通山口県支部下松電報電話局分会 | 67 |
電気業 | 中電労下松発電所支部 | 150 |
水道業 | 全水道山口県本部下松支部 | 40 |
協同組合 | 山口県農協労組下松市分会 | 60 |
保健及び廃棄物処理業 | 周南地区衛生施設組合職労 | 36 |
教育 | 山口県教組下松支部 下松市教職組 | 6 253 |
地方事務 | 下松市職労 | 422 |
計 | 25組合 | 6,448 |