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交通安全を目指して

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 日本の経済が高度経済成長期を迎えると、下松市内の各企業も整備拡充が進み、生産・貨物は急増し、トラックを主に自動車は増加した。しかし、道路の改良・舗装は遅れ、交通安全施設も整わず、また市民の交通安全思想の普及、安全教育も不徹底であった。そのため、六一年の交通事故は二六二件、死者二四人、重傷者四三人、軽傷者一六三人に達した。
 下松市は同年六月結成された下松市安全会議を通じ、市民に交通安全思想の普及・啓蒙を行い、下松警察署は交通取締・安全教育・指導を重点施策とした。また、交通安全施設の整備を急ぐこととなり、六三年一月、下松病院前交差点に第一号の交通信号機を的置し、以後毎年主要交差点から信号機の設置を進め、現在では七〇基の設置となっている。横断歩道橋も六七年三月中村小学校通学路(国道二号)に設置されて以来、現在は一〇橋に及んでいる。また道路の改良・舗装、主要街路の歩車道整備も進み、ガードレールの設置、街灯、道路標識もしだいに完備した。
 六〇年代後半に入るとモータリゼーション時代を迎え、交通安全運動を強力に推進するため、市民安全の日(毎月一日、十日、二十日)を定め、市幹部職員、諸団体関係者、学校教職員、企業関係者などが警察官とともに、早朝主要交差点に立ち、交通安全の徹底を図ることとした。
 また、市民の交通安全意識の啓発を目的として、六七年四月市民交通障害保険制度を発足させた。この保険制度は損保方式で、市民が市役所に年額三六〇円(一日一円)を納める任意加入制で、市は損害保険協会に委託する方法をとった。被災者への見舞金は、最高一〇〇万円から一万円までで、当初の加入率は五〇パーセントであったが漸減傾向をみせている。
 七〇年代を迎えて自動車はますます増加して、交通事故も激増し、交通戦争と言われるようになった。市は条例で交通安全対策会議を設置し、また交通安全指導推進委員(一〇名)を任命して、通学路を定め、学童の登下校の安全を期することとした。市には交通安全係を設け、パトロール車を配置して、市民に交通安全意識を喚起するとともに、交通安全施設の点検にあたった。
 このように、交通安全対策に努めた結果、人身事故、特に死亡事故は、表19のように漸減することとなった。なお八七年、市内の自動車保有台数は四輪車二万八六八台、二輪車(バイクを含む)八九四六台となっている。
表19 道路交通事故の状況
(単位:件・人)
年 次事故件数人 身 事 故物的損害事故
件数死亡者重傷者軽傷者
1960年167159832119
612622302443163
62269224834182
651822031253138
674123941256326
709645881355520
72847326453559389521
74919166214937168753
78815270315319293545
80812216258131226596
811,012265326427295717
821,058264293138255794
831,044250310437269794