日本の高度経済成長は、他方で産業災害や交通事故の多発となって現れた。政府は「生活のすべてに安全を」を目標に、六〇年から毎年七月一日を「国民安全の日」と定め、全国安全会議を設置して、国をあげて安全運動を展開することとした。県も同年十一月山口県安全会議を結成し、県民安全運動を展開した。下松市は四大企業を中心に産業の発展は目覚しかったが、しかし同年交通事故、産業災害などによる死者二七名、負傷者一二〇〇名を出した。この事態に、各職場、諸団体、学校、家庭などで、それぞれ安全運動・教育が行われたが、さらに強力な市民安全運動とする機運が高まり、翌年六月市内三七団体が参加して下松市安全会議を設立した。
市は安全会議の行う運動を、幅広く、根強く、持続する市民総ぐるみ運動とするため、市民全体の安全に対する願いと決意を表明する「安全都市宣言」を行うこととした。この宣言は、安全会議の設立される前日市議会で満場一致で議決され、全市民運動としての安全決意を、県内市・町・村のトップを切って市内外に強く表明した。
下松市安全会議は毎年二回開催し、あらゆる面での安全運動は着実に伸展したが、六五年以後、モータリゼーション時代となり、交通安全が安全会議の主な事業となった。