政府は、戦後教育改革の重要な課題である教育行政の民主化・地方分権化・自主独立の実現をはかり、一九四八年七月に「教育委員会法」を公布し、公正な民意と地方の実情に即した教育を行う機関として都道府県および市町村に教育委員会を設置することとした。教育委員会を構成する教育委員は公選とし、都道府県教育委員会では七名、市町村教育委員会では五名と定め、うち一名は議会議員のなかから選出するものとした。
都道府県と五大市の教育委員会は同年度設置とし、市町村の教育委員会は五〇年度までに設置することとした。この法令によって県は五〇年十月に「県教育委員会委員選挙」を行った。
その後、市町村教育委員会の設置は、戦後財政の困窮、新制中学校の発足等による教育費膨張の実情を考慮して法改正が行われ、五二年まで延期され本県では同年十月一斉に市町村教育委員会委員の選挙が行われた。
本市では八名の教育委員立候補者があって激戦となったが、加藤義男・武居良生・福高丘・弘中伝人の四名が当選し、市議会からは河村八郎議員が教育委員に選出された。これによって十一月に第一回教育委員会が開かれ、教育委員長に加藤義男を選出し、教育長には藤尾桂一が任命されて下松市教育委員会が発足した。その後、教育委員長は弘中伝人、渡辺又雄、高田秀次、宝城興仁、梅本清、藤岡由五、石井明に引き継がれ、教育長は大木武尾、清木幹丈、河村芳信が就任した。
公選制の教育委員会が発足して以来、各地で予算案・条例案の原案送付権や教職員の広域人事等の上で混乱が生じるようになったので、政府は五六年六月に抜本的な大改正をはかり「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」を公布して十月から施行した。この法令によって教育委員の公選は廃止され、首長が議会の同意を得て任命することになった。また、予算案・条例案の原案送付権も廃され、教職員人事も県教育委員会が市町村教育委員会の内申をまって任免することに改められた。
教育委員会発足当時の事務局は、教育長室・総務課(庶務課・経理係)・社会教育課(文化係・体育係・図書館係)の一室二課の機構をもって運営され、さらに翌五三年二月に下松市教育研究所を教育委員会事務局内に併設した。教育研究所は本市教育の全体的振興と教職員の資質向上をはかるため、教育の原理と実践、教育条件の整備等に関する調査研究を行う機関として設けたもので、教育長を所長とし、研究員は指導主事および校長・教員の中から委嘱したが、所長は七六年度から小・中学校長のうちから教育委員会が委任することに改めた。
研究運営の手順は、教育実践上の問題点(学校)→仮説の設定(教育研究所)→教育現場での検証(学校)→理論の再構成(教育研究所)→実践化(学校)という循環過程によって共通課題を設定し、教育委員会・全小・中学校一体となって取り組む態勢をとった。また、研究領域も教育や社会の進展に応じてしだいに拡大し七〇年度から生涯教育、七九年度からは青少年健全育成の課題を取り入れ、社会と学校を一体とする教育研究を推進した。
その後、教育委員会事務局の機構も教育の拡充とともに、つぎのように改正された。一九五四年七月に市立図書館が社会教育課より独立、七〇年四月に体育課を新設、七二年六月に参事を設置、七四年五月に教育長室を廃止して学校教育課を新設、七六年五月に参事を教育次長と改称し、現在に至っている。