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米川と久保の動向

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 米川地区の過疎化の進行によって米川中学校の生徒数も逐次減少し、一九五六年度、生徒数一五五人・五学級であったのが、六六年度には生徒八七人・三学級となり、さらに試算によると、その後もこの傾向が続き七八年度には生徒数四〇人、複式学級になることが予測された。このような小規模校になっては、職員構成の上からも中学教育の機能を充分に発揮できず、教育の成果も期待しがたい状態になることが予想され、山中市長の教育に対する識見と熱意による力強い支持のもとに、末武中学校への統合がはかられた。
 この方針に基づいて、六六年十二月に市教育委員会は、米川中学校育友会との協議に入ったが、このことは米川地区の重大問題としてたちまち全地域で論議が広がり、その結論は、長年にわたって中学校を地域の中で見守り育ててきた愛着の情が強く、心情的に統合反対の意見が支配的であった。
 しかし、その後も市教育委員会と米川中小学校育友会連絡協議会・部落代表者協議会との間に根気強く折衝協議が続けられた結果、教育的見地から統合もやむを得ないと判断し、スクールバスの運行、米川小学校の整備等を希望条件として、その実現に協力することになった。
 かくて六八年四月からスクールバスの運行を開始して末武中学校に通学をはじめた。また他の要望事項であった米川小学校の整備については、旧米川中学校校舎を解体して鉄筋二階建の近代的校舎を新築し七〇年三月に新校舎に移転した。旧米川小学校校舎のうち鉄筋建物は改装して市役所米川出張所・米川公民館として使用されることになった。
 米川地区と対照的に人口が急増したのが、久保地区であった。七三年以来、周南工業地域のべットタウンとして、久保東陽住宅団地の開発構想が策定されて施工が進められ、完成後には戸数一五四六戸・人口六一八四人に達することが予想されたため、小学校の新設が計画された。これに基づいて市は総事業費約一〇億五〇〇〇万円をもって団地の中央に約二万六〇〇〇平方メートルの用地を取得して鉄筋三階建校舎・屋内運動場・プール等を完備した小学校を建設し、団地名をとって東陽小学校と命名し、八六年四月開校した。
 久保中学校においても東陽住宅団地の完成で生徒数がしだいに増加し、これまで一時的なプレハブ教室をもって対応してきたが、全体的に狭隘となり、また従来の校舎も老朽化が進んできたので抜本的な校舎移転・大改増築を行って整備することになった。総事業費約五億六〇〇〇万円をもって、南側の山林を買収して新たに七〇〇〇平方メートルの校地を造成し、ここに鉄筋四階建ての新校舎を建設するとともに旧校舎は解体し、従来の運動場に加えて大拡張を行い、八七年三月に完成した。