戦時非常措置によって、工業学校に転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の不足を補う立場で設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、市の強い要請もあって、四六年四月に、県立下松高等女学校として再出発した。
さらに、下松高等女学校は四八年四月から、新制高等学校に移行されることに備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央にあたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な問題点もあったが、四七年十一月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称されたゆえんである。四九年二月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。
五四年四月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、六四年三月廃止された。
他方、四八年七月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。五三年三月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は、五七年三月に、家庭科は、六一年三月に、それぞれ募集を停止し、六三年三月、寺町分校は廃止された。