ビューア該当ページ

都濃高等学校米川分校と櫨蔭高等学校

1024 ~ 1025 / 1124ページ
 都濃郡須々万村に設立されていた県立都濃農林学校は四八年四月から、県立都濃高等学校(県立徳山北高等学校の前身)と改称し、同年六月に、須金・中須両村とともに、米川村にも定時制家庭科の米川分校が開設された。最初は、米川小学校校舎の一部を借用して授業を開始したが、翌年、米川中学校校舎の竣工によって、その校舎の一部を借りて、ここに移り、さらに五四年に、米川中学校に隣接して、分校校舎一教室を建築した。その後志願者が減少し五八年三月に至って、米川分校も閉鎖された。
 私立下松高等女学校細田校長は終戦後、隣接の光市にキリスト教主義に基づく学校の設立を図り、四六年四月、浅江の旧海軍工廠筒井第三寄宿舎を仮校舎とし、下松高等女学校光分校を開校した。
 四八年四月、新制高等学校の発足に伴い、櫨蔭高等学校と改称し、光分校を聖光高等学校として独立させ、校舎を浅江から市の中央、緑ケ丘にあった旧海軍工廠集会所施設に移転した。五三年三月に学園経営の合理化のため、櫨蔭高等学校を閉鎖し、聖光高等学校に統合することになった。下松高等女学校(第四編第八章5)以来、本市の女子中等教育に尽くした櫨蔭学園二四年間の足跡は大きく、卒業者数も二三四〇人に及んでいる。