学校教育法によって幼稚園は学校体系の一環として位置づけられ、幼稚園の目的・目標・保育内容・入園資格・職員等が規定された。これを受けて文部省は、幼稚園の保育内容や施設・設備・編成等の基準を示すため、一九四八年に「保育要領」を、五二年に「幼稚園基準」を作成、通達し、幼稚園の水準向上を図った。その後、五六年に「幼稚園教育要領」、「幼稚園設置基準」を制定し、さらに六四年度に発足した「幼稚園振興計画」に引続いて七一年「幼稚園教育振興計画要領」を策定し、八二年度当初までに入園を希望する四・五歳児のすべてを就園させることを目標とする整備方針、国の助成方策を示すなど、積極的に幼稚園の普及・充実を推進した。
本市においては、幼児教育の重要性に立って幼稚園の助成を積極的に進め、七一年八月に幼稚園就園奨励費補助制度が設けられるに及んで、翌年度から四・五歳児を就園させている保護者で所得の低い者に対して就園奨励費を補助し、また下松市私立幼稚園協会を通じて幼稚園運営費の補助金を交付することを始めた。さらに八四年度から私立幼稚園施設整備費補助金交付要綱に基づいて、学校法人立幼稚園が園舎を新増改築する場合に補助金を交付することとし、助成の強化を図った。
五〇年代になると、わが国の産業経済もようやく復興し、国民生活もしだいに安定して、市民の幼児教育に対する関心や要望が急速に高まり、加えて戦後のベビーブームによる幼児の急増期を迎え、幼稚園の設立が急務となってきた。従来の下松慈光園、四恩保育園も認可を受けて幼稚園と改称し、また新たに五三年から翌年にかけて八口、青木(六〇年に八口、青木両幼稚園を合併して綱鈑幼稚園と改称)、江口、玉鶴、末光、久保、妹脊、正立(七五年閉園)の八幼稚園が開園した。さらに六五年に笠戸島幼稚園、七一年に旗岡幼稚園、七四年に第二四恩幼稚園がそれぞれ認可、設立された。以上の幼稚園はいずれも学校法人または個人の経営によるものである。
このようにして本市の幼児教育は保育を主とする保育所(園)、児童館等を合わせて全市的に充足するに至り、八六年度新入学児童に係る保育歴調査結果(県学事文書課)によると、本市では新入学児童六九九名のうち幼稚園卒四四三名・六三・四パーセント、保育所卒二二七名三二・五パーセント、その他の幼児施設卒二六名・三・七パーセント、計九九・六パーセント(市部県平均九九・四パーセント)となっており、ほとんどの幼児が小学校入学前の教育を受けていることを示している(保育園については、第三章1)。