戦後における地域の復興、民主化にとって青年によせる期待は大きく、これにこたえて地域の青年も相互の連帯・研修をはかり、地域社会の発展に貢献しようと各地区で青年団を再組織し、活動を開始するに至った。その後、青年団有志の熱心な奔走によって全市規模の組織化が進められ、一九五一年に下松市青年団連絡協議会が結成され、翌年九月にはこれを下松市連合青年団(八単位団、団員男女約三〇〇人)に改めて組織を強化した。これが母体となってつぎの事業を行いながら連合青年団の拡充・発展を推進した。
青年団組織の強化-未組織地区における結団の促進、指導者の育成・研修、単位団間の相互提携の緊密化。このような努力が実のって、六四年には単位団四八、団員一〇〇〇名に及ぶ青年団活動の最盛期を迎えるに至った。
青年研修の拡充-文化祭、のちの青年祭(作品の展示、演劇の公開)、青年市議会、文化講座、政治講座、体育スポーツ行事等の開催。かような青年団活動の成果として、六〇年の県青年大会において野球の部で優勝し中国大会に出場、また女子バレーボールの部も準決勝に進出、また、六七年には県芸能文化大会において柳青年団が第一位となって全国大会に出場した。
社会活動への積極参加-結婚改善、献血、その他各種の市民運動に参加協力。
記念事業の実施-市連青発足十周年記念事業として柳土手に桜の補植(六一年)。二十周年記念事業として笠戸島大城岬に青年の杜を造成(七一年)。
このころ、わが国の経済は高度成長を続けて高学歴社会が進行し、市内青少年の進学も顕著となり、心理的にも職業的にも都市集中の現象を来たし、青年の意識や価値観も大きく変化・多様化するに至った。この傾向は地域に根ざす青年団に多大な影響を及ぼし、七五年ごろから団員の減少、単位団の解散が相次ぎ、現在はわずか切山・山田の両青年団を残すのみとなった。