戦後の疲弊と混乱の中にあって、早くも国民の間に、健康・体力の回復・増進と明るい精神的活力の振起を求めて、体育・スポーツ・レクリエーション活動がほうはいとして勃興してきた。
文部省は、一九四六年八月「社会体育実施に関する件」の通達を出すとともに「社会体育実施の参考」を作成し、社会体育振興の組織・運営・施設・指導等について指針を示し、その向上・発展を図かった。この年四月にはラジオ体操の放送が復活し(翌年八月に休止、五一年再開)、十一月には第一回国民体育大会が京阪神地区で開催され、本県でもその予選をかねて同年九、十月に県体育大会が実施された。また、四八年七月には国民の祝日として体育の日が制定された。法制の上では、六一年六月に「スポーツ振興法」が公布され、スポーツの目的、施策の方針、振興のための措置等が示され、その実践を推進するため体育指導委員を市町村教育委員会に設置することになった。
国・県の社会体育・スポーツの奨励政策、国民経済の発展や余暇時間の伸長に伴なって、市民のスポーツ活動もしだいに活発となり、とくに六〇年代前半には市民待望の体育館の建設や県民期待の山口国体が開催され、これを契機に市民スポーツは急速な発展を示した。
市教育委員会は六一年十二月に、スポーツ振興法に基づいて体育指導委員を設置した。体育指導委員は種目スポーツの指導、地域スポーツ活動の振興、体育行事への参画・運営に当たり、その活躍は市民スポーツの底辺拡大と実技向上に大きな成果をもたらした。
他面、市民スポーツ活動の根起こしともなった下松市体育祭が五〇年から市体育協会によって開催された。当初は体協の登録選手を対象としたものであったが、六六年からは市教育委員会の直轄行事とし、公民館対抗の予選形式に改めた。これによって参加人員も急増し、予選を加えると五六〇〇人に及び、名実ともに市民スポーツの一大祭典となった。さらに翌年には、市民の取りくみやすいスポーツとして、バドミントン・バレーボール・水泳を奨励種目に決定するとともに、毎月第三日曜日を市民スポーツデーとして、市民の積極的なスポーツ活動を促した。
六四年の第一八回オリンピック東京大会を契機に、国民体力増強の必要と国民総医療費増加の対策として、国民の健康体力づくりが国家的課題として取りあげられるようになった。六五年三月に総理府が中心となって関係省庁や各種民間団体が参加して体力づくり国民会議を結成し、その推進事業の実施団体として国民体力づくり事業協議会が設置された。山口県においては同年九月山口県健康増進体力づくり推進協議会が発足した。
下松市は六六年に健康体力づくり国民運動モデル市町村に指定され、その推進実行団体として十二月下松市体力づくり推進協会議会(会長市長・副会長教育長)を設置した。次いで翌年から二カ年にわたって、体力づくり国民運動推進指定地区となり、全市的体制をもって積極的に健康・体力づくりを進めてきた。
その活動は現在に及んで活発に展開されており、主な事業として、一般市民の健康体力増進に対する啓蒙と生活化、食生活の改善と生活の合理化、健康体操や体力テストの普及、保健栄養講座の開催等を実施し、市民体育祭・市民スポーツデーやスポーツ奨励種目の普及・推進に努めている。これらの実績が評価され、六八年十月に岐阜市における健康体力づくり運動推進全国大会において体力づくり国民会議議長賞を授与された。
その後、七九年七月に下松市健康づくり推進協議会を設置し、また八三年四月には下松市保健センターを建設して、健康の保持・増進を図り、体力づくり推進協議会とあわせて健康体力づくり運動を力強く推進してきた。かかる健康体力増進への不断の努力と顕著な成果が認められて、八五年九月、札幌市における健康体力づくり運動推進全国大会で総務庁長官賞を受賞した。