今からおよそ一三〇〇余年前には、今の下松を青柳浦(あおやぎのうら)とよんでいた。時の天皇は推古女帝(すいこじょてい)で聖徳太子(しょうとくたいし)が攝政(せっしょう)であった。下松妙見さまの旧記によると、この天皇の三年(五九五)九月十八日、都濃郡鷲頭庄(つのぐんわしずのしょう)青柳浦の松の木(下松駅北のかなえの松)の上に、大きな星がおりて、七日七夜の間目もくらむばかりに光り輝いた。里の人びとは、「これはただごとではない。」と恐れおののいた。その時、占(うらな)いをする人に神のおつげがあって、「われは北辰(ほくしん)の精(せい)である。今より三年の後、百済(くだら)の国の王子がこの国を慕(した)って来朝されるので、その守護の為、ここに天降ったのである。」と告げた。神を祭ることを生活の中心としていた里の人びとは、いそいで社(やしろ)を建ててその星を祭り、土地の役人はこれを天皇に伝えたという。そこで、北辰の精が松の木に降ったというので、青柳浦を降松と改め、その後、今の下松と書くようになったといわれている。
この百済の国の王子を琳聖太子(りんしょうたいし)といい、大内氏はその子孫と伝えられている。ちなみに大内氏では、この北辰の降ったのを、推古天皇の十七年(六〇九)としている。