明治六年頃、兵庫県三原郡淡路島洲本すなわち、淡路人形の本場から、綽名(あだな)人形好、本名豊田好蔵が、斉田某と二人で人形を所持し、旅廻りをして下松に来た。戸籍には、嘉永二年三月十一日生まれとあり、当時二十五才位ではなかったかと思われる。この二人が使っていた人形は、焼印や墨跡の文字からみて、 天狗屋久吉・人形富・大江順・由良亀などといった人達の製作であるように思われる。いずれも、大阪文楽座のものと同じ製作者の人形であろうか。当時、下松の人達は、港町高洲の網主河村某さんの家に、一座吉田屋を設けて熱心に稽古(けいこ)をし、下松はもとより、笠戸の浦の豊漁祝や祈願祭等に、この人形による「三番叟(さんばそう)」をはじめ、種々の芸題のものを上演したといわれている。時には招かれて室積の普賢祭、岩田の大日祭、下松の妙見祭、平田の塩竈祭(しおがまさい)など、かけ小屋で上演したということである。
明治二十五年頃から、大正十年頃までの間には、中村宇三郎という人が、人形・浄瑠璃の下松の腕達者を引卒して、中国地方を巡業し、遠く朝鮮半島までも足をのばし、各地にその名声を博したといわれている。
豊田好蔵は、その後も高洲の座で活躍し、多くの弟子を養成した。その当時の記録によると、人形の使い手武居福蔵ほか八名、浄瑠璃の語り手鶴沢清造ほか三味線を含めて二十名、舞台係六名となっており、非常に盛んであった。むかしから、下松に来て浄瑠璃を語るなといわれていたが、こうしたことばも、この地でこのように人形浄瑠璃が盛んであったことからであろうか。
時は流れ、こうした芸道にいそしんだ人びとも、ほとんど物故され、今は、使い手のない人形が数個と、浄瑠璃の書が二十冊、某家の納屋(なや)に眠っている。