天保(てんぽう)二年(一八三一)七月、末武下村の百姓六百余名が、花岡八幡宮の境内にたてこもり大変であったが、いろいろの人たちの説得により、大事に至らなかったといい伝えられている。
八幡宮社家の日記に、次のように記してある。
七月二十七日、今日宮市百姓勢起る。引続き、三田尻、中之関。
山口迄の間、道々残らず大変のこと。山口は八月朔日(ついたち)、二日。
萩より諸役人早馬にて御出張。花岡町中もいろいろやりました。
改変、大変なり。 大庄屋 内富源左衛門。
末武下村百姓六百人余 八幡宮に籠り、大変、改変。 下村庄屋 堀吉郎左衛門
当町御目付、福井吉兵衛様御出張、御徒歩目付(おかちめつけ)以下、上下三十人余、五十日余、上ノ野村家に滞留のこと。