17 宮原に伝わる話(みやばらにつたわるはなし) (末武地区)

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 末武川下流、右岸の丘陵地は、地名を宮原といい五ヘクタール余りの畑地になり、農耕に供されている。現在は、国鉄新幹線・周南バイパス等が横断し、交通の要路となり、むかしの面影は次第にうすれていく状況にある。そこには、市指定文化財「宮原古墳」があり、百二十年前には、第二奇兵隊の脱走隊士の処刑場があったといわれているが、その名残をとどめていないため、その位置を知ることはできない。
 慶応二年(一八六六)の第二回長州征伐の直前、長州藩論は討幕の方向に統一され、すでに編成されていた奇兵隊諸隊に対し、一般人の志願入隊の自由が認められたので、志望者が激増し膨大な勢力となり、藩内に諸隊が一五六隊も編成されていたと伝えられる。
 その中で、第二奇兵隊は二百余名となり、岩田の石城山を本拠として、日夜訓練に励んでいたと伝えられている。
 隊の幹部の一人であった「立石孫一郎」という人物は、備中倉敷の人で才気縦横、武勇識見ともに卓越していたので、多くの部下の信望を得て、その勢力は次第に強力になってきた。立石孫一郎は、この部下を誘導し、平素から私怨のある倉敷の浅尾代官所を襲うため、第二奇兵隊の脱走を企て、不平分子をそそのかし、直ちに行動を起こした。
 石城山において訓練中の隊士半数を率いて、海路倉敷に行き、浅尾代官所焼打ちの暴動を起こし、孫一郎の私怨は晴らされたが、この暴動に巻き込まれた年若い隊士たちは、倉敷から長州に帰るや、本藩政府の指令に従わず、隊規を破った行為の罪にとわれ、それぞれ処刑されたのである。
 首領の立石孫一郎は、島田川の千歳橋において殺されたが、他の者たちも、年齢十四才以下の者はお構いなく、成人の隊士は、ことごとく各所の刑場の露と消えたのである。宮原での処刑者は、六名となっているが、その中で本市出身者は二名ということである。
 何も知らぬままに、第二奇兵隊に志願入隊し、上司の命に従って行動を共にし、何も知らぬまま斬首の刑に処せられた因縁を思えば、宮原の地に立っては、涙なきを得ない。