27 火鎮天神(花岡八幡宮境内の由来(ひしずめてんじんはなおかはちまんぐうけいだいのゆらい)) (花岡地区)

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 天和(一六八一)の検地(けんち)に、庄屋神兵衛は所有の畑地を竿尺(さおじゃく)で測量したと、庄屋某の訴えにより、斬罪(ざんざい)となった。当時、検地に竿尺を用いることは厳禁されていたのである。
 しかし、それは讒訴(ざんそ)によるものとわかり、刑の取消しの沙汰(さた)があるが、庄屋某は神兵衛との平素からの対立を恨みに思い、取消しの沙汰がありながら、斬罪に処してしまったと伝えられている。また、一説には萩からの取消しの沙汰をもった早馬が間にあわなかったとも伝えられている。
 いずれにしろ、このため、庄屋某は当地にいたたまれず遂電(ちくでん)、後に改姓して帰るが、神兵衛の怨霊(おんりょう)と、良心の呵責(かしゃく)に悩まされ、それに加えて町中に次々火災が発生した。これは怨霊のたたりによるものと噂(うわさ)が高まり、何とか、これを静めようと、神官、僧侶に相談した。
 「天神さまを祭り、菅公の怨霊を静め給いし故事に従えば静まらん」との指導を受け、当時、上地(あげじ)にあった天神社を現在地に移し、立派な社殿を建て、年々町中の人たちにより盛大な祭事を行ったところ、怨霊も静まり、風評も治まり、火災もおこらず、町中平穏(へいおん)な日々を送ることができたということである。