むかし、久保の中戸原(なかとはら)に伊左衛門というお百姓さんが住んでいました。伊左衛門には一男三女があり、姉は「きわ」といい兄は源六、妹は「きち」といい、かやは天明五年(一七八五)に生まれました。
かやは生れつき孝心厚く父伊左衛門は大そう貧乏で、わずかな田畑の耕作では、家族の暮しも思うにまかせず、その上寛政三年(一七九一)伊左衛門は五十四才の折、眼病となりました。当時かやは七才でした。伊左衛門は手厚い看病のかいもなくついに盲目となり、仕事ができなくなってしまいました。常でさえ貧乏な上に幼い子供が四人もいたのでは、日増しに困窮するようになり、少しばかりの耕作ではどうにもならず、ついには家屋敷さえ入質して、それで得たわずかなお金で暮しを立てておりました。しかしそのお金も間もなく使い果し、妻子を養うことができなくなってしまいました。
翌寛政四年(一七九二)には、一家の生活ができなくなりましたので夫婦相談の上、妻は三人の娘を連れて里へ帰り、伊左衛門は長男源六をつれて、夫婦別居して暮すことになりました。それよりかやは八才という幼い身でありながら、日日父の家を訪れては慰め、かやが成長するにしたがって、稼ぎも多くなると、それに合せて食物などを用意して持って行き、又奉公して給金をもらった時はただちに両親に与えて親を喜ばせました。
かやの親へのつくし方は、だれから見ても人のまねのできるものではありませんでした。
姉のきわは香力村の百姓十郎左衛門に嫁入りしました。かやは両親を養うことを考えて年頃になっても嫁入りせず、身を粉にして孝養をつくしました。その内享和二年(一八〇二)かや十八才の時、兄源六は家が余りの貧乏のため将来を悲観して家を出ていきました。
その後父の伊左衛門は不幸が重なり、手足も不自由となりました。かやはこのような困難にも屈せず、日傭稼ぎなどして食物を得ては父の所に運び介抱しました。しかし、父の家は中戸原にあり、母の家は宮が浴にあったので、何ごとにつけて思うにまかせず、母親に相談の上父親を母親の所へ引越させました。時に文化二年(一八〇五)かや二十一才の年でありました。
両親が同居するようになっても親孝行を忘れず、朝は早くから起きて食事を与え、日傭仕事に出て、昼は立帰って食事を与え、夕方には湯浴みをすすめて両親を喜ばせました。
こうしたことを一日の休みもなく続けるうち、妹の「きち」も他家へ縁付きし、自分一人で両親の面倒を引受け日夜余念なく稼ぎ、質入れした家屋敷を請もどして父親を安心させました。時に文政二年(一八一九)閏四月、かや三十五才の時でした。この時、徳山藩主毛利の殿様よりご褒美として米一俵をいただきました。
文政二年四月四日、この頃父は八十二才、母は六十六才の老年に及び、父は盲目手足もかなわず、母は生れつき弱く、血の道に腹腰痛く、歩くことにも難儀なありさまでしたので大いにいたわり、父には毎日のように好きな酒をあたえ、母には好きな米豆などの炒(い)ったものを常日頃枕元に置くなどして孝養をつくしました。
その後も文政八年十月二十七日孝行により、米一俵と銭一貫目をご褒美としてたまわりました。さらにかやは両親に孝行をつづけておりました所、天保元年(一八三〇)十二月二十六日父伊左衛門九十三才でこの世を去りました。かやは父の死を甚だおしみ泣く泣く葬式をすませ、その後は母への孝養をおこたりませんでした。天保三年(一八三二)かや四十八才、母七十九才の時又褒美として毎年米一俵づついただきました。
母が天保八年(一八三七)十一月三日八十四才で亡くなるまで孝養をつくし、その後は、亡父母の菩提(ぼだい)を弔(とむら)い、朝夕墓参して日を送ったといいます。孝女かやも七十八才まで生き文久二年(一八六二)八月十六日亡くなりましたが、今でも墓は西念寺墓地にあります。