笠戸島、本浦には、今も「お船蔵」というところがあります。これは、本浦集落の東端にあり、ここは、風もよけ、恰好(かっこう)の船の係留地で、藩政時代には、多くの藩船が、係留されるところでした。
さて、この藩船の漕ぎ手(こぎて)が、「舸子」といわれ、本浦には、十余家ありました。しかし禄らしきものはなく、猫の額のような、せまい畑地からの収穫と、海のわずかな漁により糊口をしのぐありさまで、生活は苦しいので、話し合って集団で豊後(ぶんご)(伊美)の国に逃散しました。
通常、逃散をすれば、斬罪(ざんざい)にとわれるのが常識ですが、藩は、今までの舸子に対する処遇のことも考え、豊後の国と掛合い、もとの本浦に帰らせ、以後の生計が立ちゆくように、話し合いを進めました。
その時、藩が「山」か「海」かの権利を与えようとして選ばせ、海に決めたのでした。その墨付は、明治の火災で消失しましたが、東は、水無瀬島(みなせじま)より豊後にいたる線、西は、古島(ふるしま)より、姫島(ひめしま)を見通す範囲の、漁業権を得て以来、本浦の地に安住したといわれています。