まさの生まれた宝暦の頃は、天災が多く、農作物の不作の年が続き、特に、まさの生まれた年は、夏はひでりで、初秋には暴風雨があり、防長二州の収穫に、大被害を受けました。
雨水にたよる、島の農家の稲作は、全滅に近く、農家の苦しみは大変でした。普通でさえ、貧しい小作人のまさの母は、酒好きの父のいることで、その生活の辛苦は、なみ大抵ではなく、本当に、哀れなありさまでした。
まさは、遊びたい七才の頃から、母の手助けをまめまめしくし、やがて年頃になっても人並みにお化粧をして、身を飾るでもなく、朝は、早くから浜に出て貝堀りをし、昼は、田畑を耕し、山に入っては枯木を拾い、また、人に雇われて、わずかな賃金をもらって、父母の喜ぶものを買い求めて帰りました。
また、夜は夜で、昼間のはげしい仕事の疲れもいとわず、父母の手足や背中を、かわるがわるさすりました。やがて、両親が気持よさそうに、寝息を立てれば、草履(ぞうり)を作ったり縄をなったりして、翌日の仕事の準備をするなどして、夜が更けて床に入るという生活でしたが、貧しさの中にも、平和で楽しい毎日を、過ごしていました。
そのうちに、ふとしたことから、母は、重い眼病にかかりましたが、良いお医者にみせたくてもお金がなく、そのうえ、父と母の二人分の仕事を、一手に引き受けて、今までにも増して、寝る間も惜しんで働きました。そうして得たわずかなお金で、母の薬を買い求め、文字どおり、帯も解かないで介抱をし、母の眼病治療のため尽くしました。
しかし、母の眼病は、いっこうに快方に向わず、この上は、神仏におすがりするより外はないと、かねてより、霊験あらたかと評判の高い、下松の妙見さまにお願いしようと、毎朝水を浴び、身を清めて、母の眼病がなおるように祈願しました。そして、(三・七)二十一日間の「願(がん)」をかけて、最後の満願(まんがん)の日は、ことのほか大雪で、風も強く吹いていましたが、今日こそ日頃からの願いがかなって、母の病気もなおる日と信じて、まだ、夜も明けきらないうちから、小舟をあやつり、ようやく下松に漕(こ)ぎつき、降り積る雪を踏み分けて、やっとのことで、中宮にたどりつきました。
お社(やしろ)の前にぬかづき、母の大病平癒(へいゆ)を祈願して、もときた道をひき返しましたが、おりからの雪とともに、吹き荒れる妙見おろしの風に、つけていた笠はうばわれ、草履(ぞうり)は破れそのまま、雪の中に行き倒れ、気を失ってしまいました。たまたま、通りかかった村人に助けられたまさは、手厚い介抱(かいほう)を受けて、やっとのことで、元気を取り返しました。
このような、まさの、命がけの信心(しんじん)のかいもなく、母は病み始めて、六年の間に、とうとう盲目になりました。
まさの苦しみは、まわりから見た目にも、痛ましく見えました。ただこのうえは、親の心を慰めるよりほかはないと、以前にも増して孝養をつくし、骨身を惜(お)しまず働き、ほそぼそと暮しているうちに、父の八助は、まさが四十四才の文化二年(一八〇五)二月十一日、八十四才の天寿を全うし、まさの孝養を感謝しながら、大往生をとげました。
つづいて、母も、まさが五十一才の、文化九年(一八一二)、手厚いまさの介抱をうけながら、九十余才の高齢で、この世を去りました。さきには父を失い、今また、母と別れたまさの悲しみは、本当に、他人の涙をさそいました。これより前に、まさは、生存中に一度夫を迎えましたが、間もなく、この一家の暮しが大変貧乏なため、家を捨てて出て行ってしまい、その後は、何度人に勧められても、働きがいのない夫があっては、思うように、父母に孝養ができないと、二度と夫を迎えず、世継ぎには、甥の宇吉がいるので心配はないと、その後は、一生を独身で通しました。また、生れつきの優しい気質で、父母に仕えるのと同じように、暇をみつけては、隣り近所の世話をよくし、常に明るい笑顔で人に接して、誰からも親しまれ、愛されていました。
このことは、いつの間にか、世間の人にも知れることとなり、ついに、藩主の毛利斉房(もうりなりふさ)公のお耳に達し、まさが四十六才となった年の、文化四年(一八〇七)三月、差し当って米一俵を褒美として、殿様から下さったものであります。
やがて、まさが四十九才の、文化七年二月十九日には、時の藩主、毛利斉煕(なりひろ)公より、まさに家屋敷をたまわり、家の前に「孝女まさ所」と刻んだ、石の頌徳碑(しょうとくひ)を、建てられました。
安政四年(一八五七)には、藩主毛利敬親(たかちか)公より、まさの一生の間、毎年米一俵をたまわることの覚書をたまわりました。まさは、また、九十六才の時、画家の「朝倉氏」に、肖像画を描いてもらい、翌年の安政五年には、褒美として、永代苗字を許され、正浦と名のることになりました。まさの「正」と、深浦の「浦」を、とられたものと伝えられております。
しかし、いかに元気であったまさも、寄る年には勝てず、安政六年の秋ごろから、ふとした風邪(かぜ)がもとで床につき、翌年の安政七年(一八六〇)の閏三月二十三日、養子宇吉にみとられて、その長い苦難と栄光の、九十九才の生涯を、閉じたのであります。
藩主は、なおも、孝女まさの行跡を、永く世に残さんがために、「孝女満佐之墓」と刻んだ、大きな自然石の墓を建てられました。
その後、明治七年(一八七四)山口県より、遺族に対し、米二十俵を追賞され、明治十八年(一八八五)、明治天皇の行幸の際、遺族に対し、表彰が行われました。
明治三十年(一八九七)には、村民が集まり相談し、現在の公集小学校の前に、大きな頌徳碑を建てました。
この碑面には、旧藩主「毛利元徳公」が作られた、次のような歌が、刻まれています。
たらちねを おもうこころは 降りつもる
雪よりもげに ふかくやありけむ
また、まさは、次のように讃えられて、末永く人びとの心に刻みこまれています。
防長の三孝女………大津郡の「とわ」、吉敷郡の「お石」と、「おまさ」
周防の三孝女………吉敷郡の「お石」、徳山の「お米」と、「おまさ」
都濃郡の三孝女……徳山の「お米」、久保の「おかや」と、「おまさ」
孝女満佐の肖像
(この原画は公集小学校に保存されている)