52 深浦八幡宮の神舞(ふかうらはちまんぐうのかんまい) (深浦の地区)

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 いつ頃かわかりませんが、毛利の殿様の持ち船が、深浦の沖合に、荒天を避けていた時、あまりのしけのため、船が難波して、乗っていた武士は、ほとんど溺死してしまいました。
 毛利藩は、沈んだ船をそのままにしておきましたが、島の若者たちは、いたずらに、その船の武具や幟旗(のぼりばた)などを盗んで、かくしてしまいました。しかし、このことが藩に知れるところとなり、その探索(たんさく)がきびしくなりました。
 島内では、それが発覚して、犠牲者(ぎせいしゃ)を出すことを恐れ、生きた心地もしませんでした。その時、島の人たちに、大変可愛がわれていた、他国から来た若者がいました。この若者は、御恩返しはこの時とばかり、その罪を一身に引き受け、藩に名乗り出たので、島での探索は打ち切られました。やがて、若者の罪がきまって、お仕置(しお)きになる日が来ました。
 その日、島の仲間の人々は、一身を犠牲(ぎせい)にして、首を打たれる若者の、冥福を祈ろうとしましたが、役人の目が厳しく、容易にそれができません。衆智をしぼり、八幡宮の前で、神舞にことよせて舞い、役人の目をそらして、その若者の供養をすることにしたのが、八幡宮の神舞の始まりということです。
 その日が、旧の三月十八日であったので、その後は、毎年その日を「春祭り」と呼んで社前で神舞が続けられてきました。
 もうひとつの伝説では、藩に名乗り出た若者は、実は勇敢な島の者で、もしそれが知れたら、一族郎党に罪が及ぶことを恐れて、他国から来た若者だと、いつわったのだということですが、これが真実かもしれないということです。