松王さまというのは、深浦小学校の南の、小高い丘の森の中に祭られている、小さなお宮のことであります。
この森には、二抱えも三抱えもある老松が、昼なお暗く生い茂っているため、島の人々は恐れて、この森には、足を踏み入れません。「木の枝一本盗っても、命をとられる。」といって、松の枝を折ることや、雑木の刈り込みをすることさえ、恐れられています。
この森の中に、古いお墓が、二・三基あります。話によると、むかし、唐の船が島の沖合で難破し、その時乗っていた人たちの、なきがらを葬ったということです。そして、土地の人に手厚く葬られたにもかかわらず、異国に眠る悲しさに、故郷を恋い、それがもとで、災いするのだと、いい伝えられています。
深浦湾の中ほどにある、厳島明神の祭神は、伊都岐島姫命(いつきしまひめのみこと)で、大昔、自分の安住の地を探しておられました。築紫(ちくし)(福岡県)から東に向い、航海される途中、この島に着かれ、美しい山や海の景色にひかれ、ここを、永住の地にと思われました。しかし、島内に、七浦七恵比須をお祭りしなくてはならないのだが、一浦だけたりません。
それで、笠戸島はあきらめて、さらに東に進まれ、安芸の国(あきのくに)の宮島に、移られたといいます。深浦という地名は、明神さまが、「ここは、深い浦じゃ。」と仰せられて、このような名がついたと伝えられ、厳島明神の祭られている土地を、明神と呼んでいます。
また、古老の話しによると、神功皇后が、新羅(しらぎ)ご親征の途中、この地に立ち寄られたとも伝えられています。そして、毎年旧暦の、六月十七日の夜になると、安芸の宮島様と同じように、深浦の東と西より、大きい打瀬船(うたせぶね)一艘(そう)づつに、七十数個の提燈(ちょうちん)をともし、月の上りと同じに船を出して、海の中の明神様にお参りします。また、この船の中では、笛や太鼓のお囃(はや)しが行われ、船のまわりには、何十艘という小舟が、本船を守るように進み、提燈の明りが海に映えて、さながら龍宮城を思わせ、乙姫様(おとひめさま)が、今にも現われるようで、その景観は、なににも例えようがありません。
こうして今も、深浦湾での夏の管弦祭は、夜おそくまでにぎわっております。